エンターテインメント化

なんだか、求めるものが得られない感じで、読後感がすっきりしない。二冊とも。

さまよう刃』は少年法の問題を扱っている。「自分の身内が人間性の欠落した未成年者にむごい殺され方をしたらどうする?復讐しても良いと思うか?」と尋ねられたら、大抵の人は「復讐は良くない。でも復讐に走る気持ちはわかる」と答えるのではないだろうか。物語が「想定の範囲」から出て行かないので、揺さぶられない。

幻夜』は、阪神淡路大震災で運命的な出会いをした男女の話。姉妹編的な位置付けと聞いた『白夜行』を、以前夢中で読んだので期待したのだが、あまり面白く読めなかった。『幻夜』も『白夜行』も、美しいヒロインと彼女に魅入られた男が主人公だ。『白夜行』のヒロインは、男を破滅させる。しかし、彼女が残酷であればあるほどに、彼女が生きてきた運命の過酷さは、その美貌と共に一層際立つ。
しかし『幻夜』のヒロインは、ちっとも共感を呼ばない。震災以前にどんな過去を生きてきたのかしらないが、整形に異様に興味を示すがめつい女にしか見えない。立て看板の、単に顔がきれいな女みたいだ。

確かに、何千人もの人が亡くなったあの震災の夜、『幻夜』に書かれたような出来事が実際に起こったかもしれない。全く有り得なかったとは言えないだろう。しかし、あの震災を舞台にした物語のヒロインが、この程度の悪女でいいのか?

何かで、東野圭吾が「ファム・ファタルに翻弄されるエンターテインメントとして読んでもらえれば」みたいなことを書いていた(すみません、出典覚えてません)。けれど、ただ単に「エンターテインメント」として読むことになんとなく抵抗を覚えるのは、私があの震災を消化しきれていないせいなんだろう。鎮魂ってどういうことなのか。ある事件がエンターテインメントになる過程はどうなっているのか。年を取っているのにそんなこともわからない。『クライマーズ・ハイ』は面白く読んだし、特に抵抗もなかった。何が違うのか。

森達也が、何かのラジオ番組で「オウムは終わっていない。だからこそ世の中が、当時のままの不安をひきずっているのだ」というようなことを話していた。そして中国問題。

「歴史になる」「歴史から学ぶ」ということをたまに考えている。結果的に東野圭吾がきっかけで考えているけれど、作品自体にはそういうことを考えさせる視点が抜けていると思うので、しばらく読まないかも。

「Yoichiro Miyamoto Cyberclass」というサイトを見つけました。
「見える戦争/見えない戦争---- ヴェトナム戦争、ニューシネマ、湾岸戦争 ----」http://www.hibun.tsukuba.ac.jp/miyamoto/viet.htm