明日尼寺に入るとしても何の不都合もない生活だ

やっと、明日はお休み。とは言ってもやることは山のようにあるんだけど。一日に30分人と会う予定が入るだけで一日中負荷を感じるからな。そういう意味で、とりあえず明日の予定はない。でも、本当は入れるべきだとわかっているので気が重い。

ところで「尼寺に行こうかしら」と夢想することは、自分のことを「僕」と呼ぶのと同じくらい、ある年頃の女の子に普遍的な現象ではないだろうか。俗世から切り離されて毎日聖典を筆写するような生活。「でも、髪を切り落とさなきゃならないんだよ。結婚もできないんだよ」という条件を聞くと、一足飛びに決断を下すのはなるほど難しい、と思ったものだが...。明日尼寺に入るとしても、物理的な障害は何もないな。問題は物欲だけだろう。

なんかこのところ、自分が、自分と関係ないことばかりやっているような気がする。「慣れたり折り合いをつけるためのささいな積み重ね」を大切だと思うことにかわりはないけれど、私にとって「生活」が大切だったことがこれまであったか?「生活を大切にしよう」という言葉に、勝手に踊ってないか?いや、関係ないことだけで人生埋まっていくんだろう、みたいな覚悟はある程度埋め込んであるけれど。

座禅にでも行きたし。しかし、座禅を組むとか正座をするとか、無理な気がする。