変わったこと、変わらないこと

図書館の「F1グランプリ特集」の予約をする人が増えてしまって(多分定期購読者が5人くらいいる)、まだ11月号も読んでいない。

ところで、以前から、「F1グランプリ特集」を読むにあたって、技術系の解説には全く歯が立たず、悔しい思いをしていた。「自分で車を運転する人なら、このくらいわかるんだろうな」と思っていたけれど、免許を取得してみても事態が全く変わっていないことに気づく。教習所では「車をどう動かすか」を教えるのであって、「車がどういう仕組みで動いているのか」についてはほとんど教えないのだ。「車が走る」だけでも十分楽しいけど、いつまでも車がブラックボックスのままなのはさびしいなあ。やっぱりせめてマニュアル取ろうかしら。

昔読んだ何かの小説か漫画で、女性の刑事だかなんだかがキットカーを運転していることがわかって、「お、やるな」と主人公が思うというシーンがあった。いつも何もわからないまま、「なんとかって感じ」で生きている私としては、「何かをきちんとわかっている」ということに憧れるのだった。

ふとした折に、「車がないこと」を前提にした思考をしていることに気づかされる。例えば旅行。これまで鉄道とバスを足にするしかなかったので、1日に数本しかバスが出ないような場所に行くためにはかなりの下調べが必要だった。でもこれからは、自分の好きな「はじっこ」に気の向くまま出かけられるんだな。10月、鈴鹿に行ったときにあきらめた美杉村にも、今ならもうバスの時間を気にせず行けるんだと思うとちょっとした感慨を覚える。3ヶ月後に免許を取っていようとは想像だにしていなかった。

住まいについても、「駅から歩ける」ことがこれまで必須だったけれど、今後は「駅からめちゃめちゃ遠くて家賃は安い車庫付きの家」という選択も可能だ。そういえば、来年はおうちの更新の年だなあ。仕事の状況によっては本気で考える必要があるかも。

もう一つ、これは仕事がらみのこと。「いざとなったら肉体労働」という選択肢を持っていないことに、昔から漠然とした不安があった。「土方」「風俗」「水商売」「レジ打ち」、どれもできない。「つぶしのきく頭脳」を持っていない人間として、「運転」はなんとか行けるのではないか。今後全く適性がなかったということがわかれば別だが、3年たったら二種免許を取ろう。

40年かけて培ってきた無意識の前提を崩すのは、ちょっと時間がかかる。でも楽しい。