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1. 『秘見仏記』(『見仏記〈2〉仏友篇 (角川文庫)』)に出てきた寺
仏像を見ている「私」「仏友」そして、相手の隙をついて何か楽しいことを言わなきゃ、ということにばかり気を取られている、ホモにしか見えないであろう男二人旅ってどうなのかということばかりいとうさんが考えている第二集。滋賀とか佐渡とか、相変わらずチョイスが素敵。あっ。文庫本にはおまけがついている。そっちも借りなきゃならないのか。
- 滋賀:西野薬師堂/赤後寺/渡岸寺
- 滋賀:小谷寺/石道寺/己高閣/世代閣/知善院
- 京都:東寺/仁和寺/法金剛院
- 四国:極楽寺/井戸寺/丈六寺
- 四国:蓮華寺/豊楽寺/中島観音堂
- 四国:雪蹊寺/竹林寺/北寺
- 東京:五百羅漢寺/安養院/目黒不動尊/宝城坊
- 鎌倉:東慶寺/建長寺/円応寺/鶴岡八幡宮/覚園寺
- 鎌倉:光明寺/長谷寺/高徳院
- 北越:宝伝寺/明静院/西照寺
- 佐渡:長安寺/長谷寺/国分寺
- 佐渡:昭和殿/慶宮寺
2. 『東京飄然』使ってみたい
「飄然と漫然はどこが違うのでしょうか」「漫然と飄然というのはやはりこれはぜんぜん違う。漫然というのはもう、ほんと、ただもうくにゃくにゃになって、もうなにもないような、ただ無目的にぶらぶらしとるといった情けないような状態だ。しかし、飄然というのは同じくぶらぶらしながらも、そこに一抹の雅致というかなんかそんなものが漂うそういう状態の無目的というか」「まあ本当の飄然というのはやはり多少の、いいかい、多少の目的みたいなものもやはり少しはあるんだけど表面上は無目的にするということだよ」
以下は今読んでいる『眠る男』から。
おまえはもうぶらついているのでさえもない。なぜならぶらぶら歩きは、そうする時間を、工夫をめぐらし時間の帯からうかせる貴重な数分を、かすめとるものだけにできることだからだ。初めのころはおまえは散歩の道を選んでいた、行き先を決めていた、わが意に反してユリシーズの旅めいた複雑な旅路を頭に描いていた。...だが、目的が観光であれ文化であれ、あるいは、失望に終るものであれ馬鹿げたものであれ挑発でさえあってもやはりそれは目的であること妨げはしなかった、つまり緊張であり、意思であり、情緒であることを妨げなかった。
- 背嚢を背負い
- 弥縫策
- ずんずん
- 私はこれはこういうことではないかと思った。すなわち
- 私は小石のように黙殺された。
- ちゃあっ、と舌を鳴らすなどして終始、自分を威嚇してやまぬのであった。
- よござんす。
- 私は駘蕩たる気分であった。くはは。
- くんくんする
- 「飄然と漫然はどこが違うのでしょうか」
- 個人的な研鑽努力によって独自の味の達成を成し得たと思っている店主のいるようなラーメン店
- アッパーな気持ち
- 真似をして、がははと笑って私はさびしい。
- 勃然と
- 懐郷的な気分
- ところが奇怪なことに
- という思想の萌芽を自らのうちに認めざるを得ない。
- 非飄然行為
- 考えてみればこんな怪しからんことはなく、
- 少し精神のファンシーな人
- ぎゃん。
- 脳漿を絞るようにして
- 私は今後、自分のことを俺ということにするぜ。よろしくお願いします。
- 幡随院長兵衛
- 腐儒
- 乳をほりだして
- 「自分に誇りを持って、本当の自分に出逢えるまで、私はどこまでも歩いて行く」