1945年、55年、65年生まれ

『大人になれないまま成熟するために 前略。「ぼく」としか言えないオジさんたちへ』金原瑞人洋泉社、10/2004、ISBN:4896918568

世代とか歴史とか、そういうことに思いを致す機会が増えるのは、歳を取ることの面白さの一つだ。若い頃、目の前にあるのは「現実」で「歴史」じゃなかったからね。

そして、このところ漠然と「若い人たちに何を伝えていったらいいのだろう」と思っていたりする。「何言ってんだ。結婚はしない。もちろん子供も作らない。外出すらしないじゃないか。それが「伝える」だって?笑わせんじゃない」ってなもんだが、長く生きるとそういうことも考えるもんなんですよ(わーい、年寄りぶりっこだ)。

もともと、教師を筆頭として年上とは折り合いが良くなかった。「決めつける」「頭を押さえる」というイメージがある。それに比べて、年下と付きあうのは気が楽だ。自分が仕切れるし料理は取り分けてくれるし...ってそうじゃないだろ。

年上で好きな人が文字通り「尊敬」できる存在だとすると、年下の人たちから得られるのは「驚き」だ。自分の思考の延長線上にないものを得る愉楽。今の若者は学力が低いとか言われているけれども、一緒に仕事をした経験からいえば、できるやつはめちゃめちゃできる。自分の世代の比じゃない。この世代とギブアンドテイクを成立させるために、自分は何ができるのか?何を伝えられるのか?

ということで、金原さんの本の話に戻ろう。曰く、日本では若者は尊重されていない。それは若者を尊重するという土壌がないからだ。日本での「ヤングアダルト」の受容のされ方一つを見てもそれはわかる。

ヤングアダルト」という用語は、図書館に行く人なら知っているかもしれない。児童書と大人向けの書籍の中間に位置するカテゴリーとして、"ヤングアダルト(YA)"がある。漫画やコバルト文庫をはじめとするライトノベルは、ここに入っていることが多い(うちの区では西尾維新もここ)。

その「ヤングアダルト」だが、和製英語のようにも見えるけれども、発祥の地はアメリカ。1950-60年代、アメリカン・ドリームの実現を背景に、若者が金銭的・時間的余裕を持つようになった。必然的に若者による若者のための新しい文化が生まれる。まず音楽と映画。文学はそれに遅れるけれども、大人からの商業的干渉に踊らされながらも、"冷戦構造に対応するアメリカ社会の動きや、黒人公民権運動に象徴される社会の矛盾を、批判的に見るという視点を生み出し"つつ、1970年代、「ヤングアダルト」文学として確固たる地位を築いていく。

それにひきかえ、日本でのヤングアダルト文学はなかなか市民権を得ることができなかった。「若者による若者のための文学」という動き自体はあったのだ。しかし"女性が多いこと、児童文学から出発した作家や、コバルト文庫、X文庫、電撃文庫スニーカー文庫などのライトノベルと呼ばれる分野でデビューした作家が多いのがひとつの特色"である日本のヤングアダルト文学は、"サブカルチャー"の枠に押し込められ、正当な評価を奪われてしまった。団塊の世代によって。

その世代の人を一括りにして批判するわけではないけれども、と前置きはあるけれども、著者の団塊の世代を見る目は厳しい。日本の団塊の世代は、若者の文化を担った最初の世代だ。しかし、全共闘運動を闘ったのは日本の若者すべてではなく、大学生という"将来を約束された小インテリたち"であり、戦後の価値観を壊すといいながら既存の勢力と共通の教養を土台にする彼らは、大学を卒業するとさっさと「大人」になった。

戦後の価値観を壊すのに忙しかったのは仕方がない。だけど壊すだけ壊しておいて、何も創りださないままさっさとサラリーマンになってしまったじゃないか。その後の若者たちが"オタク"と呼ばれて日陰の地に追いやられながらも創造的作品を次々と産み出していた時、あなた方は"土地や外国の文化財を高額で買うこと以外に、さしたる投資先を見つけることのできなかった"じゃないか。

育てることを放棄したまま成熟せず大人になるのではなく、だから、成熟しなくてはならないのだ。"成熟とは、単に自分が大人になれない大人であることを確認することではありません。そのことを前提としたうえで、では自分よりも若い人たちに、どうやって自分をつなげていくかという方策を、必死になって考えることです"。

今のポスト団塊(大体1952年生まれ以降くらい?)の人たちは、「大人にならないまま」「大人にならないこと」をきちんと考えた最初の世代なのかもしれない。現在は、大人にならないことは奇形でも例外でもない。ほっといても別に反抗しなくても、どのみち私は大人にならない。そして、我々の世代の前にはちゃんと先輩たちの世代が歩いているんだなあ、と心強く思ったのだった(自分たちはどんな世代なのだろう)。

最後に副題について。女性は「ぼく」という便利な人称代名詞を持っていない。「私」でも「あたし」でもしっくり来ない、「ぼく」と言いたいときに、「当方」とかあるいは自分の名字そのままとかで代用するこの切なさが、男性にわかるだろうか。でもまあ、これはまた別の話ですね。

<追記>リンクしていただきました。
☆[ヤングアダルト]と[ライトノベル]を考えるための[リンク集] http://d.hatena.ne.jp/medicineman/20050128