残酷な神が支配する5』ISBN:4091916155残酷な神が支配する6』ISBN:4091916163萩尾望都小学館、01/2005

第6巻のラストシーン。ジェルミがイアンを誘ってみせる。やがて二人は扉の向こうに消える。描かれているのは肩を抱き、抱かれて歩く二人の足元だけ。

ドアが閉まる音すら聞こえそうな。

そして、ドアのこちら側に取り残された読者は我に返る。「なんだこれは!恋の話じゃないか!」

なんの話だと思っていたか?私はこれは虐待の話、そして心理学の話だと思っていました(頭が固いから)。萩尾望都がとうとう「現代らしい」題材を取り上げたのかと。そして胡散臭い(偏見ですね)心理学の人になってしまうのかと。上っ面の「痛み」「愛」「救い」そんなものを見せられたらかなわないな、と(わー、不遜すぎる)。

「痛み」については申し分なかった。「痛み」は「不信」だ。自分に対する、そして現実、世界に対する。現実から逃げ続けたジェルミが偶像の母を失って殺人の罪を告白し始めた時、それを受け止めるべきイアンは、ジェルミを拒否する。イアンがそれまで信じていた現実とはあまりにかけ離れていたから。それは、イアンが長年あがめてきた父の思い出を冒涜するものだったから。

「不信」がジェルミとイアンを引き離す。しかし、真実を知ったとき、イアンはジェルミと向き合うことを決心する。

心の痛みが人をどう苦しめるかが克明に描かれる。そして身体が性的に作り変えられていく生々しい描写。ここまで描くかなあ。これはもう少女漫画じゃないかもしれない。これが萩尾望都の描く「現実」なのかな、

と思っていると、ヤラレル。お互いに理解しようと思うことが愛の始まりになるかもしれない。だけど、恋はそんなものじゃないんだ。この二人は、引き合うべくして引き合ったのだ。あれだけ克明に二人が出会ってからの経過を描いたのは、「虐待」や「理解」なんてものが全て忘却される瞬間を描くためだったのか、とすら思う。「愛」も「救い」も、それを意図したところにはなく、ただそれを可能にする万に一つの出会いがあるだけだ。

「身体」を描き、「性」を描いた上で、少女漫画のロマンチシズムは保たれるか、という賭けに、萩尾望都は勝ったのだ。当然のことながら。

続きが待ち遠しい。ああ、でも次はナディアがつらい思いをするんだろうなあ。イアンはジェルミのものだもの。それでも傷の連鎖の中にいることは、世界に属しているということだ。多分それが生きているということなのだろう、と生きているか死んでいるかよくわからない私は思うのだった。