枯葉の中の青い炎
『枯葉の中の青い炎』辻原登著、若月公平(装画)、新潮社装幀室(装幀)、新潮社、01/2005

実は『ジャスミン』しか読んだことがないけれど、一作でファンになってしまった。大きな河の流れにたゆたっているような、深くて甘い恋愛のとりこに。国境を超える恋。相手は共産党幹部の妻。思想が生命を左右する状況下では、生きて再会すること以外に重要なことはない。当時たまたま、一度恋人を裏切ってしまったので別れる、という内容のドラマを見ている最中だったので(いや、あれはあれで構わないんですけど)、なおさら、広くて大きなものを感じたのだった。

本作は、日本が舞台の短編集。著者が得意としているらしい中国も登場するけれど、ロシアの色が濃い。さて、それは置いておいて「日付のある物語」。

15,6世紀のロシアで、ひとりの与太者が王亡きあとの混乱と空白に乗じて王の子を騙り、王位を簒奪する。前王の后にわが子と声明させ、支配を決定的なものとするが、数年後叛乱が起き、戦況は王に決定的に不利となりつつあった。

王を取り囲んだ叛乱兵は、しかし王を討つことをためらい、敵将は母太后に再び、王が息子なのかどうかを尋ねる。母は、否認する。王は斃れる。

しかし、この物語の語りはもっと屈折していて、贋王の破滅はじつは最初に母太后が彼を息子と認めたその瞬間に定まった、彼の変身の力は、もはやだれの息子でもないという点にあったのだ、そして、これが結局、すべての男は家を出る、ということの意味なのだ、と語る。たしかそんな風だった。

続けて昭和54年1月に大阪で起きた三菱銀行猟銃強盗・人質事件の顛末が語られる。犯人の男(梅川)は猟銃を持って銀行に押し入り、行員を射殺、警察に通報された後に客と行員を人質にとってたてこもる。不思議なことにこの行員には幾通りもの名前がある。

彼は「恐怖支配」に酔った。支配の快楽に我を忘れ、最初の目的、5千万円を強奪することを忘れた。

しかし、母に名を呼ばれた瞬間から梅川の恐怖の絶対支配はゆらぎはじめ、やがて眠り込んだ梅川は、突入隊の弾丸をあびて倒れる。

実は、この現場の真下の地下室に、「僕」はいたのだった。「僕」の所属した組織は、連合赤軍事件の後、ドヤ街にひそみ、爆弾闘争の準備を進めていた。一部始終を内線電話経由で盗聴していた「僕」は、事件が終わると組織を離れ、就職し、見合いで結婚して男の子をもうける。

ロシアの王、梅川、「僕」はどこでつながるか。「僕」は、ロシアの王の物語の出典を、残された妻の本から知る。「マルテの手記」。神戸の震災で押しつぶされた、自宅の部屋の中で。

もはやだれの息子でもない、という言葉が身にしみる。永田洋子坂口弘、植垣康弘。彼らもまた家を出てしまった青年たちであったこと、そしていまなおそうであることに思いがいたる。

辻原登の本を読むと、歴史と運命に組み込まれていることを感じる。大義を語っているわけではない。ミクロとマクロがつながっていく快感とでもいうべきもの。『マルテの手記 (講談社文庫)』も読んでいない読者としては、この人のイメージがどこからどこにつながっているかも全然把握できないのだが、それでも、読んでいる間幸せであるとはいえる。

誰か、ナボコフとからめて書評を書いてたなあ。探して読もう。
<追記> 鴻巣友季子評、週刊朝日2005/03/25号