昨日って何してたんだっけなあ。ああ、思い出した。
今日は、お昼をご馳走になり、午後は行ったことのない専門図書館に行き、その後国会図書館、最寄りの駅まで戻って最寄りの図書館。移動は多かったけれど、空いた地下鉄で移動できたのであまりストレスにはならず。

1日1冊は図書館に返却しなければ次を受け取れないので、紙にてきとーにメモを取っては返却していく。ほとんど人のいない図書館で「PCは音がうるさいから」という理由でシグマリオンの使用を禁止されたのは心外だけれど、いつも延滞見逃してくれてるお姉さんだからなあ。素直に聞いておく。

あとメール3本。眠いーん。でも、明日こそは朝寝坊したいのだ。

友人夫妻が、多分昔の写真から起こしたと思われる私のデッサンを、額に入れて贈ってくれた。とっても美人に描いている上に、「美人な別人」じゃなくて、「かなり修正入っているけれど私」だってわかるのよ。嬉しいなあ。愛だなあ。私は全く絵心がないので、母が描いた抽象画をかわりに送ります。ところで、絵心あるのはどちらだろう?

別の友人からも、事務所移転のお知らせ。そのうち呼んでくれるらしい。いい奥さんがもらってくれて良かったよ。友人二倍計画か?設計頼む甲斐性なくてごめん。でも、気ままな老人向け集合住宅案、長期で考えといてね。

どなたかわからないけれど、コメントも嬉しかったです。

しばらく行けないっぽいけれど、香港に行きたくて。1ヶ月くらい前かなあ、「失われた龍の系譜」を見て、つまり「亡命者」の伝統を持つ街なのだと気づいた。日本のテレビドラマを見て、とーきょーに遊びに来る外国人と同じくらい皮相的な理解かもしれないけれど。政治的な緊張感を持つ人々の洗練、っていうのもイメージに過ぎないのかな。このところの香港の動きは、この方のブログで読んで、こういう感じなんだろうなあと思った。

「失われた龍の系譜」を見ると、中国現代史がすとんと頭に入ってくる。日本がどんな存在だったかも。今まで息子のジャッキー・チェンにも明かされなかった重い歴史を父が語る。でも、文化大革命が「そういうこともあった」と語られるのと同様、南京大虐殺に対しても、すでに歴史の一部になっているという語り口だったと思う。あるいは、自分の歴史に収めたというか。名前さえ偽って香港で生きてきた父は、本土に戻って本来の名で一族の系譜を新たに記す。本土に子どもをそれぞれ残してきた夫婦の、香港での一人息子。ジャッキー・チェンは「香港の」申し子なのだ。

歴史になるってどういうことなのか、と、このところ断続的に考える。