私の靴底のおじさん

泣かない女はいない
『泣かない女はいない』長嶋有著、町口覚(マッチアンドカンパニー)装幀、森本美絵写真、河出書房新社、03/2005

読み始めたら大宮の話で、それからずっと、スピッツの『大宮サンセット』が流れていた。ほんとに登場するのはボブ・マーリーであり、KISSなんだけど。

29歳のときに会社を辞めて、派遣会社に登録してみた。最初の勤務地は大宮で、池袋から埼京線に乗って4ヶ月間通った。都心に通勤する人たちとは進行方向が逆なので、電車はいつもがらがら、季節は冬で、車窓から富士山がくっきり見えた。

この話の主人公の睦美さんは、大宮から郊外へ向かうシャトルに乗って、小さな物流会社に通い始める。九月。仕事は、本社から回ってくる伝票の整理と振り分けで、束ねた伝票を倉庫まで持っていく。倉庫は一階の天井(二階の床)のうち半分くらいの面が、鉄の網状になっていて、睦美さんが目にするのは、いつも二階で作業している倉庫班長の樋川さんの、網越しの靴底だ。

「あなたには社会人は務まらないよ」と宣告されて会社を辞めたので、派遣生活が務まるかどうかはわからなかったけれど、働かないわけにはいかなかった。派遣先の、酒もタバコも飲まないいかにも技術者といった感じの上司は、職場内では少し孤立している感があったが、仕事と家族を大事にしていて、ちっとも寂しそうではなかった。

睦美さんは、お昼休みは散歩に出かける。会社の周りには雑木林や保安林、公園が散在している。

滑り落ちたボールが転がってこないかと睦美は期待した。子供が聡明そうなかわいい顔をしていたからだ。二言三言、会話が交わせたら。しばしば文庫本から顔をあげて子供とボールの動きをみていたが、睦美のほうには転がってこなかった。

その頃の私は、会社を辞めた開放感もあって、夕方仕事が終わると、氷川神社のあたりを散歩して、そのまま武蔵浦和の駅まで延々と歩いたりした。東京とは縮尺自体が違っているような距離感も苦にはならず、心地よい疲労を感じながらねぐらに帰った。

ある日、睦美さんは、樋川さんを尋ねて屋上に登ってみる。いつも行く公園が見える。春になると箱状に桜が咲くという。同僚の女の子たちも、最初は怖がっていたけれども一緒に屋上に登っておしゃべりをするようになる。埃っぽい倉庫でフォークリフトの運転を習ったのも睦美さんが最初で、そのうち他の子も試してみるようになった。

派遣先の同僚たちは、一様に姉御肌で屈託がなく、週末はよく居酒屋とカラオケに出かけた。誰かの旦那が交代で迎えに来てくれて、何度か泊めてもらったこともある。

シャトルの窓越しに見える、どこかの会社のブラインド越しの男性。会社への道すがら、鉄の壁の継ぎ目越しに見る工事中の空き地。保安林で見た「なにかの領域からはみだしてきた」ような蛇。睦美さんはいつも、何かの境界を見ている。そして、境界で見たことを話したい。ある日樋川さんは、カラオケで渋々歌ったボブ・マーリーの曲のタイトルを「泣かない女はいない」と訳す。睦美さんの視線の先には、いつも樋川さんの靴底がある。

私が「何かで一番になりたい」と大真面目に言ったら、上司は「びりっけつでいいじゃない」と笑っていた。敵わない、というか、そういう選択肢もあるのかと思った。

やがて春になって、睦美さんの会社ではリストラが始まり、のんびりした社長は降格になる。倉庫への女性社員の立ち入りも禁止になる。睦美さんは、同棲中の恋人に別れを切り出す。樋川さんが会社を辞めることになる。最後の朝、睦美さんはいつもよりも早く会社に出かけ、倉庫の2階に上がって樋川さんと最後の言葉を交わす。

私は、仕事が一段落したので、自分の30歳の誕生日を勝手に退職日と決めて(笑)、大宮を離れた。今でもその時の上司は「あまり頑張り過ぎないように」と年賀状をくれる。

泣かない睦美さんはどうしているだろうか。私はたくさん泣いたけれども。

<追記>交互に持ってくるというのはいいアイディアだと思ったんだけど玉砕。べたべたするし。

  • この方の感想が、簡潔で好きです。 http://d.hatena.ne.jp/ms_passenger/20050610
  • id:activecuteさま、このようなつたない感想にトラバ感謝です。
  • id:hmmmさま、コメントチェックしました。ありがとうございます。顔文字、興味はあるんですけど、ちょっと構えちゃって。「まず図書館で歴史を繙こう」(by 森博嗣)なんて。