無縁だったはずのもの

もうおうちへかえりましょう
『もうおうちへかえりましょう』穂村弘著、小林キユウ(カバー写真)、岩瀬聡(装丁)、名久井直子(本文デザイン・DTP)、カプセルランド渋谷(撮影協力)、小学館、2004/06

またしても読了前なんだけど。この間読んだ『本当はちがうんだ日記』はとても面白かったけれど、一月に二冊読む感じではないな、と思いつつまたこちらが図書館に届いてしまって昨日読み始めて、「あ、こちらが本領発揮だな」と思い始めて、気づいたことを書きたくなった。

つまり自分は、バブル時代に青春を送ったということ。そして、今の若い人たちの持っている危機感を、自分は、自分の感覚としてはわかっていないということ。それを、この本の中の「言葉の戦後性」「言葉の金利」「したあとの朝日はだるい」を読んでわかった。

ユニクロのフリースはよく燃えるってたしか誰かが言ってたような(天道なお
ラジカセの音量をMAXにしたことがない 秋風の最中に(五島諭)
ここにある心どおりに直接に文章書こう「死にたい」とかも(永井祐)

今の若い世代の短歌を、解説付きで読めば、わかる。もちろんわからないわけじゃない。けれど、

バック・シートに眠ってていい 市街路を海賊船のように走るさ(加藤治郎
「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」(穂村弘

自分の同世代の短歌に対する、この解説のいらないわかり加減はどうでしょう。バブルには無縁だったと思ってたのに。風呂なしの下宿に住み、墓場と青果市場の間を抜けて国立大学に通い、合コンは2回しか参加せず、1円の出費も疎かにすることなく家計簿をつけていた自分に、なぜこの歌がわかるんだろう。ユーミンのBGM付きで。

これまで漠然としかわかっていなかったことが、こんなに鮮やかにわかるとは短歌恐るべし。いや、それよりも、自分はずっと間違えてきたのではないかという不安が。

例えば今怖いのは、仕事で少し行き詰っていて、でもこれまで、何度もクビになったこともあって、そのたびになんとかやってきたじゃないか。自分はそれなりに苦労もしてきたのだ、これからも多少の苦労は耐えられるさ、という認識が自分の中にはしっかりあるのだけれど、

この世に生まれてきただけで自分には人間としての権利があるとか、お互いに話せばわかるとか、いわゆる戦後民主主義的な理念に私たちは首まで浸かっていた。青春とバブル経済という二重の追い風のなかで、その自意識はさらに増幅して、自らの言葉によって世界を自由にできると思うに至った。(「言葉の戦後性」)。

その認識自体が、バブルによって培われたものなのか、ということだ。

山崎ナオコーラの『人のセックスを笑うな』を読んだときも、なんだか引っかかったんだっけ。

ユリの世代は、オレの世代よりも安定した時代に青春を過ごした世代なんじゃないだろうか。「甘さ」や「弱さ」が見える。

これは、私の今後の人生は厳しいかもしれない。今後、バブルを抜きにして己の人生を語るな、という教訓を得ました。

遠方の友人に送ろうと思って『アッコちゃんの時代』は入手済み。さあ何が出てくるかな。