京都三日目

なんだか寝苦しい夜が明けて今日も9時起床。目を開けてみると風邪から来ると思われる頭痛がする。やばいなあ。目を閉じ直して母にチェックアウトの時間を確認してもらい、12時だとわかったので、改めてコーヒーを入れてもらって、風邪薬を流し込む。有難いことに、頭痛は収まる方向。10時過ぎにチェックアウト。二日間お世話になって特になんの不満もなく(清潔・機能的・フロントの対応良し・部屋の広さも眺めも可)、使い勝手の良いホテルだった。お世話になりました。

空は快晴。京都の日曜の朝は静かだ。地下鉄で烏丸今出川まで移動し、御所を横目に見ながら南下する。目指すは晴明神社である。岡野玲子の『陰陽師 (1) (Jets comics)』の初版が発行されたのが1994年7月。たまたま出張で京都に出向いた私は、仕事の終了と同時にタクシーに飛び乗った。「堀川今出川晴明神社」と伝えても、当時は無名だったのか、運転手さんも知らなかったっけ。その後2001年に、やっぱり『陰陽師』の影響で福井の小浜を訪れた際にも、帰りに京都でお参りさせていただいた。京都に来た以上、晴明公にご挨拶しないわけにはいかないのである。相変わらず風情のない一条戻橋(http://d.hatena.ne.jp/monodoi/20060124/p2)を渡って三度目の晴明神社。晴明公はあの世で、「まあ、俗人のやることといったらこんなもんだろう」と悟ってらっしゃるか。五芒星入りご朱印をめでたく入手し、次はご近所の白峯神宮へ。

白峯神宮は創建こそ明治と新しいが、何せご祭神は日本三大怨霊の一人に数えられる崇徳天皇である。謀反に失敗し流刑となるが、配流先の讃岐では仏教の経典の写本作りに専念。完成した写本を京の寺に納めてくれるよう差し出したところ突き返され、「これに激しく怒った崇徳は、自分の舌を噛み切って、その血でせっかくの写本に呪いの文章を書き、さらに「この経典の力を持って天皇家を永遠に呪い、民を皇に、皇を民にする」と言い、自らを「日本国の大魔王」と称して爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿にな」ったという(by Wikipedia)。どんなにおどろおどろしい場所かと思ったら、境内で真っ先に目に入るのは、蹴鞠のコートと「蹴鞠碑」。現在は、地主社に祀られている精大明神が球技の神様として信仰を集めているらしく、そこここにサッカーゆかりの品々が。平和である。

さて、今日は母も同行しているので、怨霊ツアーは中断して嵐山方面へ。バスを乗り継いで松尾橋の手前で降りる。桂川を渡ってまずは松尾大社へ。松尾大社を選んだのに特に理由はなくて、桂離宮苔寺まで行ってしまうと、最終地点の太秦まで歩くのがちょっとつらいかな、という判断基準。松尾大社で母が弓を引きたいというのでちょっとつきあって(もう少しで的に当たりそうだった)、お庭は見ずに先へ進む。蕎麦屋でお昼。桂川の河畔では犬のお散歩や凧揚げをする人たち。凧揚げを久しぶりに見た。空は晴れたり曇ったり。アフガン・ハウンドを散歩させるおじさんの後について疎水の流れる住宅街を歩いていったら、じきに嵐山の駅に着いた。渡月橋を渡る前に、日本三大虚空蔵の一つ、法輪寺へお参りする。

自身の守り本尊は普賢菩薩であるのだが、心惹かれるのはやっぱり虚空蔵菩薩である。星と金属を司る神の本地仏http://www.d1.dion.ne.jp/~janis/kenkyu1.html)。一昨年?のお正月は、岐阜の美濃赤坂明星輪寺」にお参りした。素晴らしいロケーションだったなあ。虚空蔵めぐりも、私のお参りのモチーフの一つだ。

さて、法輪寺の参道の階段を上がっていくと、右手にいきなりエジソンとヘルツの顕彰碑が現れる。何事かといえば、法輪寺には古来、本尊たる虚空蔵菩薩に対応する神々として、明星天子、雨宝童子、電電明神等の大空の自然に関連した神々を祀る鎮守社があったといい、

中でも電電明神は電電陰陽融合光源の徳を祖とするということで、云わば雷、稲妻の神様であります。即ち今日流に解釈すれば電気祖神であり、電波祖神と云えるのであります。...そのお社も幕末元治元年(AD1864年)の兵火で本堂と共に悉く焼失し、仮宮のまま昭和に至ってしまいました。...昭和三十一年当時の近畿電波管理局長平林金之助氏は電気、電磁波、電子等の研究進歩により、特に電波放送の利用が多くなり、世界各国文化の交流上大きな役割を有するこの時代に電気電波の祖神の守護と世界のこれらの関係の研究先覚者並びに事業者の霊を顕彰すべきであると強く主唱され、時の郵政大臣平井太郎氏(以下略)各位の協賛、協力を得て、電電宮の修理と電電塔の建設が行われました。(http://www2.ocn.ne.jp/~horinji/dendengu/index.html

ということらしい。電気の神様というのが面白くて、つい出来心で「神様、私の脳みそに変な電波を送らないでくださいね」とかしゃべっていたら、天罰てきめん、右ひざが突然痛み出し、力を入れられなくなってしまった。大昔ひざの水を抜いて以来ごくまれに痛むことはあるのだが、それにしても突然である。こないだ髪を切りに行ったときに聞いた話が頭をよぎる。美容師さんが年末に帰省し、近所の幼馴染たちと近所の氏神様に初詣に行った。うち一人が悪のりして、鐘の撞き木にまたがって除夜の鐘を撞いたところ、後日膀胱炎になってしまったという...。「膀胱炎」というあたりが、罰の当たり方の基準としていかにも正しい感じである。聞いたときには大笑いしたものだが、今日はわが身であったか。結局、ひざの痛みは太秦寺に着くまで続いた...。

渡月橋を目にして、母が突然「あー思い出した」という。父と来たことがあるそうだ。私は会ったことがない祖母も一緒だったという。京都で一番の観光名所がどこなのかは知らないが、きっと「親を連れて京都のどこを観光しよう」と思ったときに思い浮かぶ場所ベストスリーくらいには入っているんだろうな。

雪がちらつき始めたので、途中ちょっと電車に乗ったりして太秦広隆寺。「聖徳太子建立の日本七大寺の一つ。日本書紀によると、秦河勝が、聖徳太子から仏像を賜わり、これをご本尊として建立したとある」(http://www.uzumasa.net/koryuji/)。こちらもずっと憧れていたお寺。霊宝殿で「弥勒菩薩半跏思惟像」にお目にかかる。一驚。この方は、どんな場所にいらっしゃるのか。何を目にしているのか。天上というものが存在していることを信じざるを得ないような笑み。これを人間が彫ったのか。3メートルもある不空羂索観音が、今もそのままの姿で残っていることにも感動する。深い信仰の存在。

今日の最後の訪問地は、広隆寺と同じく秦氏ゆかりの「木島坐天照御魂神社」(蚕の社)。鳥居、長く続く直線の参道、本殿、背後の木立という組み合わせは、なぜこんなに心をざわめかせ、また落ち着かせるのだろう。海を越えて渡ってきた人々の神様に手を合わせて、今回の京都散策は終了。

ところで、せっかく蚕の社にお参りしたというのに、三柱鳥居を見るのを忘れてしまった(行くべき場所だということしか覚えていなかった)。まあ、また行くからいいけれども。蛇塚古墳も月読神社も行ってないし。親孝行という面では、毎日寝坊していたので、母の好きな朝食バイキングをはしょってしまう羽目になったこと、渡月橋で写真を撮ってもらおうと言っていたのをなんとなくそのままにしてしまったこと、映画村に行き損ねたこと等が申し訳なかった。頑張って絵を描いて、また京都くらいまでは遊びに来てください。

大阪の叔母の家まで母を送り届けた後は、夜行バスで帰るべく大阪駅まで取って返す。バスターミナルの向かいのバーで頼んだジントニックとカキフライが美味しかったなあ。自由の味である(笑)。バスの出発する23時直前に雪が降り始め、無意識のうちに、雪を心待ちにしていたことに気づく。3列シートの女性専用車両は期待したほどにはくつろげなかったけれども、目を覚ますと、どこか知らない場所を、雪が乱舞する中、猛スピードで走っている。そういうのは、夢の中みたいで悪くないと思った。(01/26)