やれやれ、やっと連休らしい気分になってきた。2月に手配をすませて、あとは実行するだけ、という案件を3つ抱えていて、そのうち1つがやっと片付いた。2ヶ月がかり。実際要したのは12時間くらい。全く手付かずのものよりも、6割で放置したものの方が後で始末に困る。関係ないけど、何年か前、PCが壊れたときに衝動買いした外付けHDDは、封も解いていない。メルコがただで取り替えてくれた無線LAN一式は、箱から出したら中身が少しずつ四散してしまった。子機が壊れたので予備に買っておいた電話機は、2年放置した後やっと使う気になった。うちには何だか異様な数のバッテリーとコードがある。私は、「〜しなければならない」自体が怖い。中身はほとんど関係ない。

昨日と今日6時間ずつ費やせばよかったのだが、今日12時間費やさねばならなかったので、せっかく旧い知り合いから食事のお誘いがあったのに日延べする羽目になった。ふらふらお散歩していて、「さてこれからどうしようかしら」というような日には、全くお声がかからないのに。

なぜ昨日時間がなかったかというと、町田康の『告白』が佳境に入っていたからだ。普通、ロックの人が、あんな持ち重りのする本を書くと思うだろうか。図書館で受け取った時は、「この忙しいときに...」と恨めしく思ったものである。しかし、読んでみたら、長いけれど詩のような本だった。なんとなく、小さい頃にお布施を貰いに来ていたぼんさんを思い出した。笠をかぶっていたから顔が見えなくて、なんとはなしに怖ろしかった。しかし、もしあの人たちを家に上げたとして、お経じゃなくてこんな話を始めたら面白かったろう。仏教説話っぽいといえなくもない。

最初は町田版「三年寝太郎」の話かと思っていたら、十人も人を殺した男の話だった。なんでそんなことになったのか。話すと長い。そもそも、思ってることを簡潔にきちんと他人に伝える能力があれば、人なんか殺さない。思いが余るのだ。宮崎勤は、結局何を考えていたのか。

つまり駒太朗らの場合、思ったことをそのまま言っている。娘さんたちはなにをしているのだろうか。と思うから、「なにしてん?」どこに行くのだろうか、と思うから、「どこ行っきゃ?」思いと言葉がひとすじに繋がって真っ直ぐである。ところが俺は違う。まあ、子供のときに比べたら大分と言葉を覚えたが、それでも頭のなかでいろんな考えが渦巻いて、それが言葉をともなって口から出ていかないから、思いは不快に曲がりくねって、御所の蛇穴の蛇みたいなことになっている。
そんな蛇の挙げ句、口だけ真似をして、「なにしてん?」とか「どこ行っきゃ」とか言っても、娘たちはそうしてちょっと聞いただけでは無邪気に聞こえる言葉も、駒太朗たちのそれと違って、思弁の毒にまみれていることを敏感にも察知しているのではないか。だからあんなに警戒する。だからといって俺が俺の思っているすべてのことを言おうと思ったら、「なにしてん?」みたいな短い言葉ではとうてい表せず、ものすごく長い話になって時間がかかるし、説明のための説明から話をしなければならないし、そうなったらそうなったで娘らは俺をますます気ちがいだと思う、というか、さっき思われた。

曲がりくねっているのである。かといって、まっすぐになりたいわけではない。「直線的な物事の筋道に関する厭悪」。彼を滅ぼした毒の名前である。見栄っ張りであり、お調子者であり、お人よしであり、不器用であり、何より怠け者であった男。楠木正成の伝説が残る地で、武力を持たない自分はむしろ後醍醐帝のようだと思い、自分の中の言葉を見つけようとして見つけられず、死の間際に「あかんかった」としか言い残せなかった男。

しかし彼は、河内ではいまだにその名を語り継がれているらしい。何せ河内音頭のスタンダードナンバーだというのだから。町田康は大阪のどのあたりの人なのかな。その河内音頭を聞いて育ったのかな。まるで見てきたように書くな。死んだ男の言葉を探してやったんだな。霊媒みたいな奴だな。

今日は忙しかったので忘れていたが、書いていたらまた思い出してしまって、さんさんと涙を流している。連休だなあ。何読もう。