毎晩この時間は目を覚ましているのに、体力温存で寝ておこうとしても無駄なので起きてきた。このところbk1の新刊情報は週末の更新が遅れ気味で、今日の分がまだアップされない。

唐突にひきこもりというものについてだが、「世間が怖い」というのはよくわかる。今でも全然わかる。私も、なるべく外に出ず、なるべく人と接しないように心がけている。自分の評価と関係しない場所は、割と楽だ。

ジーヴズの事件簿 (P・G・ウッドハウス選集 1)』や『それから (新潮文庫)』を読めばわかる通り、貴族や高等遊民は別に働かなくたって文句は言われないわけだから、働かないこと自体は悪いことではない。親が裕福だったら、私も働いてなかったかもしれない。

しかし、同居はできん。断然(私は家族が嫌いというよりは、自分以外の人間と四六時中同じ空気を吸うのが億劫なのである)。親が裕福でなく、一人で生活したい以上は、最低限働くしかなかったのである。私の人生は逃げの一途で、何か嫌いなことをやるのは「それよりももっと嫌いなこと」なことから逃れたいときだけである。

ひきこもりの人たちは、「もっと嫌なこと」が家の外にあるんだなあ。養ってくれる人がいなくなったらどうしようと思うはずなのだが、それはとりあえず今日ではない、と、その日を引き伸ばしているのかなあ。「食べるものがなくなったけど、じっとしていよう」というほどにやる気が失せているのなら、それは想像の範疇を超える。肥大した自我とのせめぎあい、というのなら、それは私にとっても現在進行中の課題だ。

20代の頃私をクビにした歴代の中小企業の経営者たちに対して、「私を上手に使えばちゃんと会社に貢献できるのに、プライドが邪魔してるんだよ。馬鹿だなあ」と冷ややかに思ったものだが、そうやって人を使いきれずに会社を傾けたおじさんたちと、「お金になるのはわかってるのよ。でもわけのわからない人たちと時間を共有するくらいならお金要らない」と言っている私は、多分似ている。

何が死活問題で、どこが落としどころか。尊敬されたいのは誰に?どのくらい?

この間『サウス・バウンド』を読んだとき、東京を離れなければならなくなった一家が八重山に移住し、移住した先の親戚の人たちが、いらなくなった家財道具を分けてくれて、当座の生活用品は揃った、というくだりがあった。母に「うち、沖縄には親戚いないの?」と訊いたら、いないそうであった。