大人になる/親を悲しませる

なんとなく、実家滞在中の習慣で早起き。ついでにNHKテレビ。先週の日曜日、実家で一夜明けてたまたまテレビをつけたら甲子園の開会式で、しかもその後の二日間、ドライブの最中に試合をラジオで流したりしていたので、陰影の濃い、南国の情景が思い出される。ついでに玄米に味噌汁の朝ごはんもどこかから出てきてくれないかしら。

急にホームシックになったわけではない。ただ、親というものがいつかは死ぬのだという事実が、ごまかしようもなくそばまで近づいてきたので、怖くなって焦っているのだ。

母は今年、所属している団体の絵の研修も、メキシコか中国かで迷っていた、絵の出品ついでの旅行もあきらめてしまった。なんとなく、子どもたちが不調なのを察知して、用心深くなっているようだ。私と兄は、5年に一度くらいしか顔を合わせず、性格は全然違うのに、人生の好不調の波がかなり似通う。私の現在の大丈夫といえば大丈夫、そうでないといえばそうでない状況を、彼も彼の場所でなぞっているのかもしれない。

せめて連絡の一本でも寄越せばどれだけ安心か知れないのだが、彼が、家族というものをなんだと思っているかは、単純に「責任/重いもの/面倒くさいもの」嫌いの私の理解の範疇を超えている。

唐突に話が飛ぶけれども、先々週だかの「オーラの泉」はかなり印象に残った。ゲストは松岡修造(http://aura.spcourt.com/?cid=2244)。当初は松岡サンが美輪明宏にいいようにあしらわれるさまを漠然と聞き流していたのだが、「要するに、あなたは大人になりたくないのよ。いつまでも子どものままでいたいのよ」というくだりにドッキリ。「今大事なのは、仕事じゃなくて、家族を大事にすること」というアドバイスが続いたと記憶している。

「子どものままでいたい」要するに、責任を負いたくないという願望を私は割と自覚していて(それは無責任というだけでもなく、他人の幸不幸に関わるのは自分の手に余ると思うからだ)、「子どものままでいたい」やつは家族なんか持つな、と思っている。そして、そのように考えるに至った一番の原因は父の存在なのだが、松岡修造を見ていて、「あー、こんな風に、世間的には立派な仕事をして、普通に家庭を維持していると思われている人でも、子どものままの人っているんだよなあ」と思ったのであった。

実は、仕事をちゃんとして、結婚していて、子どももいるけれど、自分も子ども、という人は、男性に限ってはたくさんいると思う。世間的にもそれが許されている。世の普通の奥さんたちは、皆口にするではないか。「うちには大きな子どもがいて」。

けれど、子どものあるなしに関わらず、結婚していて「子どものまま」の女性って、存在し得ないのではないか。「うちの家内は、子どものままで」って、聞いたことない。乳母やらメイドやらがいる貴族は別でしょうが。子どものままでいたい女性は、家庭を壊すか、子どもを殺すか、離婚するか、結婚しないのではないかと思う。

えーと、何を言いたかったかというと、「子どものまま」の父は、老いてなお子どものまま、「母の望みをなるべく叶えない」という方法で母に甘えつくしている。「この人はいつ、母に恩を返すつもりなのか」と思うと、愕然とする。さらに、万が一母に後れたとき、「俺は何もしてやれなかった」とか、本人は「大真面目に」懺悔する姿が目に浮かんでぞっとする。

そして、父に似て「子どものまま」の私は?