富士山登山(旅行編2日目その3:なかなか一日が終わらない)

どうして、第2じゃなくて第3駐車場に駐車しちゃったんだろう、と、精も根も尽き果てて駐車場への道をとぼとぼ上がっていたら、「すみません」と声をかける人がいる。男の子だ。背が高い。「一人ですか? 自分、下山口を間違えちゃったんで、スバルラインに戻らなきゃならないんです。もしよかったら、138号まででいいので、乗せていってもらえませんか?」とのこと。

「本当に下山道間違える奴いるんだ」「顔を洗っておけばよかった」等々、とりとめのないことを考えつつ、まあ感じの良い子だったので乗せていってあげることにする。運転するようになる前、私も旅先でたまに、人の車に乗せてもらった。大いに助かった。だから、旅先で困っている人を乗せることに否やもない。

「でも、私の運転、結構やばいですよ。昨日徹夜だし、初心者マーク取れたばっかりだし、車もレンタカーだし、命の保証できないかも」と言うと、「じゃあ俺が運転しますよ」ということに。「もし事故ったら、2万円払ってね」と大真面目にお願いすると、「大丈夫、運転歴長いから」と事もなげ。赤い「i」は、ありがたいことに、昨日停車した位置におとなしく佇んでいる(当たり前だ)。さっさと運転席に乗り込んだ彼を待たせて、こちらは身支度を整えたり、今日の宿に連絡を取ったり。知らん人の前で顔を拭いたり靴下脱いだりするのはどうにも抵抗があるけれども、まあ、こういう状況では仕方がない。登山靴を脱ぐのに四苦八苦していると、「かなり来てますねー」と笑って見ているのであった。

私が前回のドライブで車に傷をつけたのは、2度とも「何か緊張する状況が終わった後」だった。下山後は絶対危ない。昨夜「i」をこの場所に停めた後、2メートルも進めば柵も何もない崖だとわかった私は、「明日車に戻ってきたら、ぼんやり車を前進させてはならない。絶対!!」と心にメモを残した。そのメモは、感心なことに、ちゃんと目立つところに残っている。「この男の子も、下山後で疲れていて、案外ぼんやりしているかもしれない。ちゃんとバックしてくれるかしら」と息を殺して見ていると、すんなりギアがバックに入り、車はくるりんと回転、一瞬後にはあざみラインを走り出していた。

車の運転は、普通に上手である。ブレーキも踏まないし、カーブも上手に曲がっていく。スピードが出すぎることもない。あー、よかった。安心。それはいいとして、あれだけ「間違えないように!」といろんなところに書いてある(朝、江戸屋のあたりで、スピーカーでも呼びかけていた)須走口と富士吉田口の下山道を間違えた経緯をちょっと聞きたい。と思って少し質問してみると、なんだかこの人は、自分がどこを登って、どこを下りてきたのかも、いまいちちゃんとはわかっていないっぽい。マイカーでスバルラインの五合目まで上がってきたというので、その「スバルライン」はわかっているらしいが、それがどうやら唯一の手がかりか。下りてくるまで、間違えたことすら気付かなかった可能性も。あー、下調べ全くなしで富士山に来る人もいるんだなあ、と認識を改める。

その割には、装備はしっかりしているっぽい。大きなザックを担いでいるし、靴も登山靴のような気がする。でも、山登りはそんなにしないとか。朝の5時に五合目に乗りつけ、がしがし上って下りてきたらしい。高山病による頭痛を抱えての頂上踏破だったとか。何かスポーツやってるの?(その大きなガタイで)と尋ねると、スノーボードとのことだった。うーん、未知の世界。「そっちは何で富士山?」と聞かれたので「鳥海山に行けなかった代わり」と答えると、「鳥海山!スノボで下りましたよ。こんなところで鳥海山の話をするとは思わなかった」と喜んでいた。

話をしていたら、すごく子供っぽいのに37で独身、住んでいる場所も同じ区内だとわかる。この夏、花火を見に行ったか、という話になり、花火なんか若い時以来行ってないよ、じゃあ今度行きましょうよ、えー、と適当に流していたら、「話、そういう流れじゃないですか。誘ってんのにノリ悪いな」と不機嫌。うーん、この私に「ノリの良さ」を要求するとはすごい。顔みりゃ、デートなんか縁がないことはわかるでしょーが、とミラーを見ると、私の生真面目で賢そうな双眸(自分で言うか)は、相変わらずサングラスで隠れているのであった。じゃあ、仕方がないのかな。

それより! せっかく気のいい(見栄えもそこそこ。日焼けした鼻の頭がラブリーだ)男の子に誘ってもらう千載一遇のチャンスを、みすみす無駄にしてしまった自分に対して、もう、大層、厳しい自己批判を入れる。これまでの人生を、ほんと久しぶりに反省した。「あら、今の私、生きている実感がある」。珍しい。私にとっての「生きている実感」とは「振られてがっかり」のことだったか、と思うと可笑しい。突然、もう、色が白くて感受性の強い男は、金輪際好みから外そう、と決心を固める。「自分の方が頑丈で鈍い」ことに、覚えなくてもいい罪悪感を覚えるのは、もううんざりだ、もう長いことそう思ってきたことに、気付いた。

といっても、こういうお兄ちゃんとは、結局縁がないんだけどね。まあ自覚の問題として。完全にお互いタメ口に移行して、相変わらず彼の口からは不思議なコトバが。マニュアル車を「ミッション車」って言うし。免許はアメリカで取ったとか。「だから、ミッション車は運転できないんです。島では運転してましたけどね。他の車通んないから」。どういう経歴なんだ。「なんで車買わないんですか。運転好きなら、買うべきでしょう」と説教も食らう。自分の車はソアラだそうな。ソアラって、確か高級車だっけ? いちいち私のデータベースにデータが無い。

しかし、決定的亀裂は、キーボードの相違から生じた。持っている携帯の話になって、ウィルコムのesを愛用している旨話したところ、普通の携帯とどう違うのか尋ねられる。「フルキーボードだし、ネットで検索するときとか便利だよ」と答えると、「検索って、何を調べるんですか」。「あなたがこれからどうやって、スバルラインの五合目にたどり着けるかだよ」と答えようかと思うが、我慢である。

そうそう、あざみラインを下って138号まで来たのはいいとして、こんなところで放り出しても効率が悪すぎる。「山中湖まで行けば駅があるのでは」と彼は言うけれども、山中湖の名前を冠した駅は覚えがない。駅があるのは河口湖だろう。宿のある山中湖まで折り返す必要を考えると、時間的にも、河口湖が送ってあげられる限度だ。有料の富士五湖道路を通って、河口湖駅まで目的地を変更。

キーボードの話の続き。「そっちの携帯、赤外線通信できますか」と、運転しながら名無し君は携帯を取り出す。一度も確認したことがないので、よくわからない。財布以外の荷物は、全て後部座席だ。有料道路だし、狭い二車線のトンネルが迫るしで、こんなときに携帯を操作しなくても、と「後にしない?」と言うと、「駄目なんですね」と暗い声が。何の話? 連絡先だったら、番号をどちらかが教えれば済むことでは? 「いや、片手で携帯操作するの、ちょっと危なくないかと思って」「俺は時間が気になるんです」「番号教えるよ」「いや、そうじゃなくて」と、投げられてしまった。

あー、いつかこんな日が来ると思ってました。携帯オンリーでPCを操作しない人をネット難民とかいうみたいだけど、私は密かに自分のことを携帯難民と規定して、いつかこの携帯の使えなさ加減で不利益を被る日が来るに違いないと予想していたのだ。こんな形で予想が的中するとは思わなかったけど。

18:00ちょうどに河口湖駅到着。「帰りの高速代と、ガソリン代」ということで、2千円のキャッシュバック。律儀だ。手を振って別れる。今時間なら、五合目までのバスも、まだあるんじゃないかな。タクシーに乗るにしても、須走口から乗るよりは全然安いはず。運転席に乗り換えて、カーナビを設定しなおして走り出そうとしたら、律儀に見送っていることに気付いたので、もう一度手を振る。楽しかったなあ。この冬は、雪山も挑戦してみよう、と、ちょっと決心した(相変わらず的外れ)。

今夜の宿は、山中湖のそばの「ペンション・セロ」。富士登山のブログを読んでいて、偶然発見した宿。ご主人がチェロ弾きだということ、弦楽器の合宿先としては名の知れた存在だということ、コンサートのできるホールが併設されているということ等々に興味を引かれ、幸い、この月曜日と火曜日だけ部屋が空いていたので、一人泊まりでも構わないかどうか確認を取り、予約を入れてみたのだった。「HP上で予約状況が確認できる」「空きがあれば一人泊まり可」「無線LANのアダプタを貸し出してくれる」「素泊まりなら夜10時までチェックイン可」「二つあるお風呂は内鍵があって、貸切が基本」「ジャクージじゃないほうの内風呂は、24時間使用可」等々、私が宿泊先に求める条件は、ほぼ全て満たしている。テレビが無いのも嬉しい(それが原因で断る人もいるとか)。

「音楽を楽しむための宿」なので、山中湖や富士山の眺めは望めない。でも、別荘地の中、緑の木立を抜けての立地は、眺めがなくても十分魅力的だ。途中、住人らしきマダムに道を尋ねて、18:30ちょうどに宿に到着。ああ、これで、今日一日を本当に乗り切った。泥だらけのあれこれは車に放置して、必要最小限の荷物を抱えて車から降りる。

大急ぎで部屋を紹介され、とりあえずはお風呂に直行。シャワーを浴びて、戸外の緑を見ながらジャクージに浸かる。幸せ。

19:00に夕食に下りていくと、すでに他の宿泊者3人はもう食卓に着いていた。先ほど電話したときに女主人から聞いていたのだが、今日の3組の宿泊客のうち、もう1組も富士山に上ってきたところだという。お父さんと息子さんというそのペアは、昨日大阪から車で来て、やはり須走口から上り、昨夜は下のほうの江戸屋で泊まったという。

まずはビールで乾杯。同じ須走口から上ったということもあって、あそこはああだった、こうだったと、おさらいするだけで話はつきない。下江戸屋は昨日団体の予約が入っていて、「3階という名の屋根裏スペース」に押し込められたとか。私がちょうど、ご来光を見て休憩に入ったのと入れ替わりに、彼らは山頂に向けて出発したらしい。入り口ですれ違ったかもしれませんね、なんてことで盛り上がる。「砂走り、つらかったですねえ」という話で、大いに盛り上がる。あれは、走って下りている人も、やっぱり大変は大変らしい。60代のお父さんの感想を聞いて、ちょっと安心する。

「どうして須走口から?」という質問に、息子さんの方が「ネットで調べたら、須走がお勧めだと書いている人が多かったから」と答える。おお、普通の人だー(笑)。ちなみに、その彼の愛車は、ホンダの「ビート」。知ってる! 森博嗣先生とおんなじだー。趣味がいい! お兄さんはセナの大ファンだという。兄弟揃って車好き。

「そういえば、表に止まっている赤のアイ、あなたのですか」と聞かれたので、レンタカーだけどそうだ、と答えたら、「第3駐車場の端っこに停めてませんでしたか?」とチェックが入る。ビンゴである。認知率、高いらしい。という話をしていたら、これまで仲間はずれの格好になって一人黙々と食べてらした残りのお一方が、「アイですって?」と会話に参加。この間まで○菱自動車にお勤めしていて、定年で退職なさったばかりとのこと。こちらの女主人の知り合いの知り合いなのだとか。

それからは、4人で仲良く四方山話。車の話、趣味の話、仕事の話で、夜の11時まで。旅先ならではの、打ち解けた集いになった。しかし、おかげでパソコンはおろか、本を開く余力もなかった。目覚ましを7時にセットして、あっという間に就寝。長い2日間の終わり。(08/19更新)