夕方から句会。もうこれで何回目だっけ? またしても2時間でやっつけ仕事をして、鰻を食いにゆく。

句会参加当初の、2時間なら2時間なりの我ながら我を忘れる集中力もなく、季重ね字余りどんと来いの蛮勇もなく、ただ単に「十七文字に一応収まっています」というだけの文字の連なりには頭が痛い。

ひねりも無く素直でもなく、本当に困惑するのは、その、密度が薄い割には荒廃した世界が、紛れもなく「私らしい」ということである。つまり、句の出来が悪いことにではなく、自分が醜いことに困惑している。

何かものを作ろうとすると、かならずぶち当たるこの壁。小学生の頃、私が撒いたアサガオの種だけ、芽が出なかったなあ、とか。

「頭で考えてだけいてもしょうがないですよねー」と後の飲み会で話すと、「じゃあ、あなた、相対性理論をちゃんと説明できる? それを説明できる程度には、頭も使わなきゃ」と、名人に言われる。

いや、頭で考えるのは賛成として(だって、ちゃんと生活していない以上、日常の感動を追求する方向は、難しいと思われる)、こねくり回す粘土の質を向上させたいのだが。