青春18きっぷを1日も使わないまま、1万円がパーだ。昨年奥の院まで行き損ねた鳳来寺山、砥鹿神社奥宮のある本宮山、それか、一番近い静岡の竜爪山、いずれか1つくらいなら、日帰りでもなんとかなると思っていたのだが...。

正月早々、自らのビッグマウスに苦しめられている。それと、今年になっても相も変わらぬ探し物と。合間に『悪党芭蕉 (新潮文庫)』と『ひねくれ一茶 (講談社文庫)』なぞ読みつつ。これも句会の関係者の推薦により。悠長に乱読してられないので、俳句関係と、ビジネス書代わりのアート系と軽い法律系の読み物だけで手一杯。『芸術起業論』以来、アートの業界話は、なんとなくビジネス書として読んでいる。『その絵、いくら? 現代アートの相場がわかる (THEORY BOOKS)』『現代アートビジネス (アスキー新書 61)』『現代アートバブル (光文社新書)』あたり。この間、東京都現代美術館に『ネオ・トロピカリア』展を見に行ったら、最終日だったせいなのか、8割方若者(おしゃれな子多かったなあ)で占められた会場の熱気に、ちょっと驚いた。今回の金融危機は、若者の美術館通いには影響がないらしい。アートバブルははじけちゃったのかもしれないけど。

でも「競売は目利きの世界に回帰しつつある」というだけのことなので、美術館やギャラリー通いをする若者たちが増えていけば、市場は確実に広がっていくのだろう。

アーティストは境界線上で踊る』を読みながら、加藤泉の「アウトサイダーたちは、作品と対話せず、それゆえ作品とともに作家が変貌することがない」という言葉に引っかかる。「成長しない」と言われることは、相手がネガティブな意味合いを付け加えているだけだと思うこともできるが、「変わらない」と言われて、それは相手に変化が見えていないだけ、と言えるだろうか、と、自分に引き寄せて考えたりすることがあるので。

悪党芭蕉 (新潮文庫)』の話。芭蕉おじさんは、もともと神田上水の浚渫工事に携わるために江戸に下ったということを知り、土木技術者萌えの私としてはちょっと嬉しい。「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」という辞世の句を、私は「悲愴ですてき」と思っていたが、「孤独や貧乏や涙をナマで詠むこと」を嫌い、「まして「言い切る」ことをよしとしない」芭蕉としては、不本意であったのではないか、との指摘に、「そうだったのかー」と思う。才気走った美男を好み、才が鼻につけば容赦なく切り捨て、しかし、寵愛した弟子がからんだ確執に巻き込まれて命を縮めた。西鶴の才能を恐れ、大坂ではなく江戸を選び、しかし、江戸で盛んになった「点取俳諧」の頂点に弟子の其角が君臨したのに対し、芭蕉はその流れについて行けなかった。ちなみに、当時の江戸の「点取俳諧」は賭博化して「俳諧賭博」となり、これは、文芸がギャンブルとなった世界的にも稀な例だそうだ。

ひねくれ一茶 (講談社文庫)』は、打って変わって肩の凝らない軽い読み物風。田辺聖子だし。へー、一茶って、口から出す言葉すべて五七五だったのねー、と思うくらいあちこちにちりばめられた句の数々に、「あれ? これって全部引用? でも、推敲の過程の句まで出てきてるけど? これ、全部調べて、全部場面に合うように埋め込んだのかな?」だとしたらすごい作業! と感嘆。かっこいいのはもちろん芭蕉だけど、この「空気のように生み出される言葉」の感じは、ちょっといいよね。筆写してみようかなあ。それもだけど、芭蕉を読んだ後だけに、当初名乗っていた「菊明」という名前に引っかかる。田辺聖子は川柳の話も書いているので、これを機に読んでみようかな。

あー、旅行に行きたかったなあ。奥三河ツアー、絶対行くぞ。「旅に行きたい」「自らのビッグマウスに悩まされる」、この心境でほほいのほい、と作れるようになったら、日記のネタとしても、それはそれで楽しいだろうに。