このところの習慣で朝の6時に起きてみたものの(そうすれば他の人の朝一にいろいろ連絡が取れるから)、終日頭がすっきりせず、一日棒に振る結果に。

予定では国会図書館で作業→美容院→東京外国語大学出版会発足記念シンポジウム(http://www.tufs.ac.jp/blog/tufspub/images/poster_20090422.pdf)のはずだったのだが、体調はいまいち、二度寝するにもメールや電話がひっきりなしに入り、国会で作業せずとも区立図書館の資料で間に合うことがわかったのはいいが、「だったら夜の8時まではOK。タクシーで10分」と概算して、さらに気が緩む。

他人に「会合に出てください。広告を出してください」と、勧誘というか強制というか、地元の組織ではこのところそういった作業が多く、「きっとそういうの、やな人はやだろうなあ」と思う。商工会とか青年会議所とか、もっと大きな組織でも会員は減少傾向だと聞いているし、まあ、存在意義が問われているという点では、自分の所属する組織も同じ。自分自身は、組織に栄えてほしいと心から願っているというよりは、「広報」と「組織の活性化」という課題を考えるチャンスを与えられたので、可能性を追求しているといったところ。これが結構、面白いっちゃ面白いのだった。おまけに疎んじられて追放されても別に構わないので、言いたい放題。美人で品のよいトップがいて、言動が何事も奥ゆかしく慇懃無礼なので最初は敬遠していたのだが、一緒に過ごす時間が増えるにつれ、お茶目でウィットに富み、毒もあり、ということがわかったので、急速に仲良くなった。あちらはあちらで、実は、少し言動に難のある型が好みだったらしい。こちらが何か企画を持っていくと「面白いわねえ。やってみましょうか」と場所とお茶とときには食事まで提供してくださって、トップダウンでとんとんと話は進んだ(実行は例によって、遅れに遅れて突貫作業だったが)。所属する別組織での「やりたきゃやれば?」という表向きはあくまで無関心、良く言えば放任、隙あらば批判しよう/出し抜こう、という微妙な空気の中でのささくれが、どれだけ癒されたかわからない。

まあ、そういう人に限って4年しかやっていないのにトップ退任だそうで、多少恨み言を書いたところ、「老後の趣味とぼけ防止に○○長をしている時代ではありませんから」と返事が来た。

退任が決まってから合点したことだが、この人は、私にとってほぼ10年ぶりの上司だったのだった。今所属している業界は自営業者の集まりだから、各所で組織上の肩書きの上下はあっても、意識の上では、せいぜい「年上」か「年下」くらいの区別しかない(それがお気に召さない人も多いかもしれない)。組織不適応がはなはだしく、いかにも一匹狼なイメージの自分が一人では何もできず、「好きにさせてくれる上司」の下で庇護されて動くのが実は一番楽しい、とわかったのは、自営業者になってどのくらい経ってからだったか。まあ「この人が私の上司である」と定めて、結構いい結果が出せた、というのは、過去2例しか無いのだが。20代にお勤めした3社では、全て上司に憎まれてクビになったし。「私は偉いんだ。私を敬え」という意識が強い人とは概してうまくいかない。男というのは、愛嬌のあるなしと従順さで仕事の評価までをも決める(ことが多い。日本以外は違うとも)、あまり相性のよくない、時には有害な生き物である、という評価は、今でもなかなか消えない。優秀さで図抜けるほどの能力が無いことが、「能力次第」の次のステージから自分を遠ざけているので、まあ文句も言えませんが。

ああ、もう一つあるな。「トップと私」で仕事が完結する、というのが比較的重要かも。スケジュールの最初のほうに自分の作業が位置すると、必ず他に迷惑がかかる。これが組織での評価が低い、一番の原因だろう。今現在も、顔向けできない場所が何か所か。

それにしても、「広報」はともかく自分が「組織の活性化」ねえ、って感じ。もう個人的には、会って人を楽しませる、という試みを放棄して長いので、ああ、避けてきたものがこんなところで、という感もありつつ。人を呼ぶには、直接の金や物でないなら、「情報」か「楽しさ」だろう。「楽しい」ということは、金には代えられないものがあって、結局、件のおじさんについても、「組織」のことが漠然と頭にあったからこそ、「場を作れる人間」としての魅力に引きずられた部分が多分ある。あの要素の1/3だけでも自分にあれば...。

しかし面白いもので、個人的にはすごく嫌な女でも、「この人は、この組織の中でこういうことをやってもらうといいかも」と思うと、あまり嫌でもない。原稿書きのように、優劣が関係することもないし。個人的には人間的な魅力と色気(と場合によっては能力までも)で劣っているわけなのだが、「組織」というクッションをはさむことで(目上に立ったような気分を味わうことで)、個人的な僻みが緩和されるわけだ。私には相性のよい考え方といえる。

「我慢する」とか「辛抱する」とかっていう言葉も、「胸におさめる」というと、なんとなくかっこいいよねえ。このところ、「忙しい」ということと、「忘れる」ということの利点を、とても高く評価してる私(漢字の成り立ちはまさに一緒である)。今回は片恋(というと恋愛一色な感じだけど、「とっても仲良くなりたい」も割と外れていない)通じずだったけど、また縁があればどこかでクロスするでしょう。たまに行き会ってにっこりするだけ、を重ねることを待てなかった。拙速。若くもないのに経験不足。余裕なし。まあしかし、ここはぴーぴー騒がず「胸におさめて」。と、言葉で実人生を迂回している間に、何か取り逃がしているのかな、私は。