この2年の(多分)最後の取材。ちょっと気合を入れて、この春初めての薄物のスーツを着て(先週は寒かったから着られなかった)、時間厳守で取材場所へ。

自分から人と話せるようにはなったけど、人が自分に話しに来ることは、そういえば相変わらずほとんどないよなあ、と、落ち込むための要因を一つ探し当ててはみても、空は青くて気持ちがいい。途中のバスで既に顔見知りの方と会って、お話しして、会場でも別の方と用があって話して、今日はなんだか、話す用がある人だけでたくさん。で話している間に、他の方から話しかけられたりして、遠くの人とも会釈し合ったりして、いつのまにこんなに顔見知りが増えたのかなあ。と笑顔の余韻が残って、なかなか「ハードボイルド仕事顔」にならない。一眼レフを構えた姿が様になるのは知ってるけど。

意外なところから今日は「お疲れ様」の声がかかって、「こんなことで嬉しがっても」と思うそばから、やっぱり嬉しい。一度の取材で4、5人ずつ顔を覚えて、1人か2人ずつ顔を覚えてもらって、それは、曲がりなりにも手を抜かずに頑張ったからだよなあ、じーん。

「僻まないように」とこのところ心がけていて、結構それが無理なくできて、でも、それは、認めてくれる人が増えたから。誰も褒めてくれない状態で「僻まないように」と思っても、それはなかなかしんどい。一言褒められて、ちょっと試す勇気が出て、だんだん外に出るようになった。「皆様が寛大なおかげだよなあ」と有り難く思うことができるようになった。

でも、ちょっと試すどころかがんがん試すようになって、やりたいことを思うまま口に出すようになったら、このところ行き過ぎの域に達した感が。私の場合、外に出ると「恥をかく」か「他人に迷惑をかける」の大体二択(場合によっては両方)だったのが、このところもしや、「傷つける」が加わっているかもしれない。他人を非難しているつもりは全くなくて、「今がゼロとして、動き出しましょうよ」という話をしているだけのつもりだったのは、「今」というのは「誰かがゼロから積み上げての結果だ」という視点が迂闊にも欠けていたから。性急で傲慢になってるかな。

そういう自分を咎めたり諌めたりする声はあまりなくて、今は好意的な声が増えた(っぽい)けれど、こういうのってきっとタイムラグがある。「反対される」「足を引っ張られる」という過去の経験の影響から抜けられなくて、被害者意識が混じったから、他人に対しての配慮が欠けることになった。この年で被害者意識は、まずいよなあ。

「あれもやりたかった、これもやりたかった」と思いながら任期を終えるのはつらいかな、と思っていたけれど、そういう感じの反省もあって、「ひとまずは、これでいいか」という割と満ち足りた気分になっている。もう一つ取材を希望していて、意外にも仲間がバックアップしてくれているのに通らなさそうなのも、「筋論」を言われるなら仕方がないかな、と。そんなものが持ち出されるということは、持ち出されるだけの理由が自分にもあるのだ(あるいは、脇の甘い自分が悪いともいえる)。どちらにせよ、身に覚えアリ。裏方さんからクレームが出た可能性もある。意外なところで味方してくれた数人に、むしろ感謝。

ということで、最後の取材だったかも。他人に感謝して終われる、ということ自体が嬉しい。