大変いい加減なメールのお返事というのは、なまじ来ないよりもげんなりするものである。まあ好意的に見れば、書き倦ねたんだろうなー、と。面倒な感じの文面を送りつけてしまったものだと、この私が思うくらいなものだから、むしろ、優しいお返事だったのかもしれない。ボタンの掛け違いって、こういうのを言うのかなーとつらつら思ったり。どこかで何かが食い違ったという思いだけが、時間の経過とともに強まる。仕事なら、ここで多分言葉を尽くして説明する。挽回もさほど難しくはない。でも、仕事じゃないんだよなあ。「面倒を先送りする」ことこそがこの場合重要だったという確信が...。

先日送付した宿題についてちょっとした勘違いがあって、再提出してね、とメールが来たので、3時間かかるところを1時間半で済ませ、その後、友人と食事。立ち飲み屋でまず一杯、その後はイタリアン。彼女の地元まで来てくれたから、ということで、割り勘よりかなり多めに支払ってくれる。いろいろ信用できる子なので、まあこういう事情で、とつらつら話し、思う存分嘆きたいところだが、目に見える決着がついていないので、ぼんやりと嘆くしかない。多少間抜け。

というか、それだけにかまけているほど暇がないのだった。あと、多少、行動パターンが変化しているのと。「動く」「待つ」の二者択一を選んだら、「待つ」なら待つだけだし、「動く」なら具体的に動く方法を考える。「回答が出そうにないこと」は、とりあえず考えない。そういう訓練をこのところ積んでいる。もう一つ、追いかけるのは意味がない、と思っていることと。何らかの、一般受けするような「価値がある」ものを追いかけたい人だろうから、価値を積み上げる方策を考えるほうが、やり方としては正しい。

ああつまり、通常よりも多少「モテる」というのは、浮動票が入ってきている状況なんだなー、と、なんとなくわかる。本来訴えかけるべき層以外にもアピールするような、何らかの幻想的付加価値が付け加わっていると考えればわかりやすい。形がない割に存在が大きいのが「自信」というやつである。これを飼い慣らしきれないのが悩みの種。こちらも訓練中だが、プライベートでは殊更、化粧がもたない。

とかなんとか考えるに、要するに、嘆くことには、いろいろ意味がないのだった。後は趣味の問題になる。自己満足や「やり尽くした」感、特攻精神、少しだけ傷つくことへの嗜好、主体性尊重、黒白はっきりつける、等々の選択肢が考えられる中で、それでも今は、臆病とは多分多少違う形で、一日も長く、相手を愛でていたいなあ、といったところでしょうかね。