decent, attitude

教習所の後は、銀座と日比谷で雑用。何か忘れているような気がしてよくよく考えたら、八重洲ブックセンタートークイベントが入っていたのだった。「憂国呆談スペシャル 「不安」の時代から「自律」の時代へ」と題して、講演者は田中康夫浅田彰宮台真司のお三方。いずれも実際に目にするのは初めて。癖のありそな小男三人を、ほぼ男ばかりの聴衆が取り囲む。なんで女性いないの?

「「憂国呆談」の開始は湾岸戦争の頃...」と浅田彰が切り出すと、田中康夫がすかさず「ちがーうよー」と間延びしつつ場を圧する第一声。うわー、こんなしゃべり方するんだ。あれだけふくよかなおなかを持ちながら、上着の釦を全て留めているところに美学を感じる。

えーと、まとめは無理なので、自分用に書き留めると、たとえば自分が感じている、生活や何かに対する不安を、私はこれまで、自分一人の問題だと思ってました。自分が実力がない怠け者なのが諸悪の根源で、社会の良し悪しはあまり関係ないのだと。けれど、表面的には違うことに悩んでいるように見えても、今の日本で「弱肉強食の世界を生きていけるか」という不安を共有しているという点で、私も、他の人たちも、そんなに違わない。

「弱肉強食は正しくない」と口にすること自体が美しくない、という認識は、自分の美意識に沿ってもいるし、建前上の正しさを疑うこともなかったけれど、「弱肉強食」は、本当に正しいのかな。という、このところ漠然と感じていた疑問が、言葉になる。知らない間に、随分窮屈な社会を生きているんだなあ。と気づく。ストイックに耐えるばかりが能じゃないのかな、とか思う。

悲惨なのは、言葉を持たない人たちだ。言葉を持たないというのは、自由ではないということ。自分がないということ。自分がなければ自由はない。自分がなければ、隷属するしかない。弱い自分を忘れさせてくれる強い者に。そして「構造改革を伴わない痛み」を進んで受け入れるのだ。

フーコーが引き合いに出され、「自分を芸術家として作っていく」ことが一つの到着点としてあげられる。「禁止がなくても自律できる」人間へ。「そんなお題目じゃなくて、明日食えるようにしてくれよ」という声の方が大きいのはいつだって同じこと。けれども、大事なのは言葉だ。「大事なのは言葉だ」とたまに確認するのは大事なことだ。

「女子供にサービスすること」を掲げるとは田中康夫はやっぱりいい趣味してるじゃないか。豊粼由美さんが「インタビュー時の発言を、一字一句、全くそのまま原稿にすることが可能だった」と言っていた浅田彰、小学生でもわかりそうなくらい、噛み砕いてまとめてくれる。宮台真司は頬が紅潮して、小僧のように見えた。

憂国呆談』も読んだのは最初の2冊くらいまでかなあ。読まなきゃいけない本と人、以下の通り(本の名前を挙げられたわけではない。「読んでいて当然」の本。当方が読んでいないだけ)。『ニッポン解散 続・憂国呆談』『限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学』『第三の道―効率と公正の新たな同盟』『再帰的近代化』『崇高と美の観念の起原 (みすずライブラリー)』『ハードワーク~低賃金で働くということ』(11/17)