「教官と私」十日目(実技9日目)

もう、「教官と私」シリーズに変えちゃおう。毎回同じ教官だったら、「今日はこれこれを習いました」という内容になるんだと思うけど、毎回教官が変わるので、その人間観察の方が面白いのだ。考えてみたら、普通に学校に通っているときもそうだったな。「こうしなさい」と言われたこと以外の部分に「面白い」or「隠された」何かを探す癖は、運転のときは改めた方が良さそうだが、日頃の習慣はなかなか急には直らない。

1限目の教官は、普通のおじさんだった。教官の運転の後でS字をやってみたら、なぜかできた。まぐれかと思ったら2度目もできた。なんでかわからないので、後付で説明してもらう。久しぶりに当たりの柔らかい人で、なんだか「この人の言うことは素直に聞こう!」という気持ちになり、借りてきた猫のようにおとなしく運転していると、教官もそれがわかったらしく、「あなたはできてるんだからね。自信を持てば大丈夫なんだから」と、本気で励ましてくださる。こんな天邪鬼の私に、有り難いやら申し訳ないやら。

2限目の教官は、同じ年くらいのおじさんになりかけの人。おじさんになることに特に警戒も違和感も嫌悪感もなさそうな感じ(あくまで感じだ)の、穏やかな人であった。「地に足のついた生活をしてるんだろうなあ。こういう場合、年が近いほどに断絶を感じるわね」とか思って、ぼんやり顔を見ていると、彼の両目がうっすらと赤く充血していることに気づいた。ルームミラーに映る私の目も、今日はうさぎさんだ。一つ共通点発見。「そうそう、お互い大変だけど、頑張りましょうね」と気を取り直す。

一つ一つの動作が決まらない。ハンドルが安定しない。ということを表すのに、各教官が知恵を絞っている。何をやるにも確信のない、私らしい欠点だ。しかし「私らしいことよ」とひとりごちている場合ではなく、教官方を安心させてあげなくては。動作が決まらないのは、「後で微修正すればいいや」という甘えがあるからだ。ピアノのタッチの甘さと同じ。「できるかできないか」は、いつだって大した問題ではない。

教習が終わってから多少頭痛がするが、せっかくなので映画館へ移動。時間まで、楽器屋さんで電子ピアノをひとしきり弾いて遊ぶ。「感覚を使う」ということに対して、一つ見方が広がったような気がする。同じ音楽なのに、歌を歌うことに対しては、そんなに快楽は感じなかった。運転をしてみて、やっぱり「何かを操作する」方が、自分は好きなのかな、と思う。

教習簿の技能のはんこをもらう欄が、そろそろ残り少なくなってきた。「この欄を全部使い切っちゃったらどうするんですか」と訪ねたら、「なに、上から紙を張るから心配いらないよ」と、このときばかりはにやっとして、教官が言ったものである。