富士山登山(旅行編1日目その2:須走口五合目から八合目まで。夜明け。)


23:30、人気のない五合目のみやげ物屋の前を通り過ぎ、石畳の登山道に入る。

先ほどのグループとはまた別の、やはり若者の集団が一組通り過ぎていった。わざわざ平日の、比較的登山者が少ないといわれる須走口を選んだだけあって、登山者は数えるほどしかいない。静かな夜。じきに木立に覆われた樹林帯に入り込み、頭と手に巻いた2台のヘッドランプの灯を頼りに、一歩一歩慎重に上っていく。といっても、特に滑りやすかったりきつい段差があるわけでもなく、淡々と上り、淡々と高度を稼ぐ。かなり短い間隔で「登山道」の標識があり、迷うこともない。ときたま、今回購入したばかりの高度計をヘッドランプで確認してみると、自分で思ったよりも数字が動いているのに勇気づけられる。周囲には誰もいないけれど、人の気配が残っていて、ちっとも怖くない。

気温は、体を動かしていてちょうどなくらいの寒さ。頭上には鉤の爪の月。コンタクトをしても1.0無い視力ではよく把握できないけれど、空は満天の星で覆われている模様。

樹林帯を抜ける。振り向くと、下方にちらちら光る街の灯。静かで、涼しくて、気持ちよくて、眺めがよくて、幸せ。

頭上には、オレンジ色のどこぞの小屋の光が、力強く点っている。高度計よりもよほどわかりやすい道標だ。熊の鈴をからんころんと鳴らしながら、後続の登山者がちらほらやってくる。ちょっとよけて、先に行ってもらう。山では超鈍足の私なので、抜かれるのが基本モード。ちなみに、須走口の標準コースタイムは、上りが6時間、下りが3時間で往復9時間くらいと思えばいいらしい(お鉢めぐりをするならプラス1時間)。私は23時半に上り始め、五合目への下山のタイムリミットは、翌日17時である。これは、翌日の宿の夕食の時間に合わせるためなので、いざとなったら夕食をパスしてもっと遅く戻る、さらに、途中で高山病で動けなくなったら、宿をキャンセルしてどこかの山小屋に泊まるという三段構えの登山計画になっている。そんなに何度も来たくないからなあ。

闇に光る山小屋の明かりは、目で見る分には遠くも近くも見え、実際の距離感はよくわからない。実際に距離が近づいたことを知らせるのは、発電機のモーター音と煙の匂いだ。六合目の長田山荘に0:50頃到着。標高約2400m。トレードマークの鯉のぼりが、ぼーっと泳いでいた。ベンチには、予想外にたくさんの登山者が腰掛けていた。登山口で一緒だったグループと思しき若者たちの姿も。特に疲れてはいないので、立ち止まって記録用の写真を撮っただけで、先へ進む。

次のやはり六合目(富士山の「〜合目」表示は「本」だの「新」だのあって、なんだか頼りにしにくい)瀬戸館には1:30到着。標高約2600m。ここでも立ち止まらず。疲れは全く感じない。快調。日光と暑さから守られた登山はこんなに楽なのか、と、これまでの炎天下での登山を思い返して、目から鱗が落ちる。ほとんど喉も渇かない。しかし、高山病と熱中症は、症状が現れる前の予防が大事、ということで、高度が100m上がるたびに、水を含む。手持ちの水は、500ml×2+330mlのペットボトル3本。水の買える山なので、重量優先である。これに3本のウイダーインゼリー、一袋の熱中飴。携帯の食飲料は、これで全て。

「食事の美味しい山小屋」として評判が高い七合目大陽館に、2:50到着。標高約2900m。さすがに、立ち止まると寒い。夜の間にここまでは来ておきたかったので、まずは第一関門クリアである。ありがたいことに、高山病の気配はない。「行けそうかな」という手ごたえ。ちょっと気になるのが、食欲のなさ。今日のお昼以降、五合目でおにぎりをひとつ食べただけだったので、もうひとつおにぎりを口に入れてみたが、ちょっと胃が受け付けない感じ。代わりにウイダーインゼリーで栄養補給。こちらはすんなり胃に収まる。

実は、六合目以降、上りに関して、これといって道中の記憶なし。空気は薄いはずなのだが、心臓が破れるような上りは記憶にない。冷たい風がひたすら気持ちよく、頭上には次の山小屋の灯と満天の星、振り返ると下界の街の灯。インソールとタイツで補強しているおかげなのか、足回りも非常に快調。

3:50に、本七合目の見晴館に到着。標高は約3200m。そろそろ小休止を取ったほうがよさそうだと判断して、ここで初めて、荷物を降ろしてベンチで休憩する。座ってみると、なるほど疲れているようだ。まあ、4時間半、ずっと歩いてきたわけだし。そういえば、2時間半運転もしてきたわけだし。しかし、5分も座っていると、猛烈に寒くなってきた。疲れを癒すどころではない。この山小屋は、名前に恥じず絶景ポイントに位置していて、眺めは最高。風の通りも最高。まさに吹きっさらし。これが名高い富士山の強風であるか、と鼻水を拭きながら思ったことである。山小屋の中に入って休憩もできるはずだが、多分有料(飲食物を購入するか、休憩代を払うか)。夜が明ける前は、休憩であっても、宿泊扱いになる場合もある、と何かで読んだ記憶がある。まだ体力には余裕がある。寒さも風も、体を動かしている分には気にならない範囲だ。移動開始。

東の空に、ぼんやりとした赤い帯が浮かぶ。もう夜明けが近いのだ。ご来光を目にするスケジュールになったのは単なる偶然だが、空が明るんでいくその一瞬一瞬が美しくて、何度も立ち止まってしまう。徐々に顕わになる山中湖のあたりも、負けずに目を奪う。






4:40、八合目江戸屋到着。ここでご来光を待って、本格的に休憩を取ることにする。山小屋の前には、登山者や宿泊者が思い思いの格好でご来光を待っている。ベンチの端っこがひとつ空いていたので、私も仲間入り。外には出ないで、山小屋の窓から身を乗り出す人たちも。

空が明けていく。美しい。でも、途轍もなく寒い。上っている最中は寒くないのをいいことに、私は横着をして、半袖のTシャツにアームカバー、薄いウィンドブレーカーの2枚しか身につけないでいた。これがたたって、もう歯の根が合わないほどの寒さ。防寒具はもちろん用意していて、フリース付きのウィンタージャケットが、ザックの中には入っている。でも、ハイだし、面倒だし、あと数分で陽は上りそうだし、写真も撮らなきゃだし、「あとちょっと」の我慢をたくさん繰り返す。山小屋の前ではためている吊り下げられた布切れが、なんとなくブータンの「ダルシン」(経文旗)を連想するのは、先週見た『アヒルと鴨のコインロッカー』の影響だろうか。

ところで、「ご来光」の瞬間って、いつ? 御日様が顔を出したとき? 完全に球形が姿を現したとき? 雲が全くなかったわけでもないこともあって、そのあたりはうやむやのまま、なんとなく盛り上がって「ご来光タイム」は終わってしまった。

これを機に、装備を整えた宿泊者が、続々と小屋から出てくる。入れ替わりに、私は中で休憩することに。小屋を入ってすぐの畳敷きのスペースに上げてもらう。休憩料、1時間千円也。あー、缶じゃないコーヒーを売っている。ココアとちょっと迷ったけど、紙コップのインスタント・コーヒー(多分)、1杯400円。でも嬉しい。美味しい。

朝食を摂っている人たちもいる。お弁当を買っている人もいる。荷物も預かってくれるらしい。300円か350円だった。

畳の上に足を伸ばして、コーヒーをしみじみ味わう。思い出したようにウィンタージャケットを取り出して着てみたが、最寒の時間帯はとうに過ぎていて、間抜けである。山小屋の人も「陽が上った後は、もうそんなに寒くならないですよ」と笑っていた。合唱のトレーニング用のヨガもどきで体をほぐしたら、ぐっと体が軽くなった気がする。捨てたものじゃないな。

「布団のあるところで横になってもいいですよ」と宿の人が申し出てくれたが、却って疲れそうな気がしたので遠慮しておく。特に何をするわけでもなく1時間を過ごして、初めてトイレにも入ってみた。料金は100円。ぜんぜん汚くなかった。というより、むしろ清潔といってもいいくらい。よくぞこの環境を整えてくれた、と、誰にということもなく頭が下がる。

緩めた靴紐を、また下の段からきっちり締めなおして、6:05山小屋を出る。残りあと600mだ。(08/19更新)