テレビ欄が、通常モードに戻ってる。当たり前だけど。テレビをつけると何かしら競技をやっている、という状況は結構快適だったのだが(NHKでそんなにうるさくなかったし)、これから何を見よう。
と思ったところで、テレビ絶ち決意。今後は見ると決めた番組だけ見よう。
この場所で仕事をするようになった3月以来、ずっとテレビつけっぱなしだったもんなあ。「何かを徹底してやる」ことは、何でも得るものがあると思ってるけど、テレビはこの程度でいいかも。深夜番組も、大して拾い物なかったし(日テレの「スーパーチャンプル」は、自分の中では新ジャンル。単発で「KYニュース」は、もし続編を作るなら見たい。構成作家、誰だったんだろう)。
暑さがお盆以降ぱったり途絶えたのは、嬉しい誤算。いろんなことが思う方向へ転ぶか、転ばないか、6:4で良い方向へ転びそうと思いつつ、息を殺して見ている(流れというものを結構信じるほうだ)。コミュニケーションが増えていることで、疲れは若干増している。「コミュニケーションを取らない」のが、私にとっては一番気楽に過ごす方法で、ふと気付くと、用事はあっても、誰からもお誘いはない。コミュニケーションを取り始めると、そんなことが思い出したように気になる。
まあしかし、「寂しい」というのは、目線が下がっているときに起こる現象だ。やりたいことがあり、「次」を見ている分に、寂しくなることはない。「居心地の良い場所がない」のがデフォルトだ。やりたいようにやっても、我慢しても、どっちにせよ居心地が悪いなら、少なくともやりたいようにやるべき。世間の支持は、ある程度金を稼いでいれば、どうにでも転ぶ。
その金だよなー、問題は。「気に食わないなら、結構です」とにっこり笑って去るために、金を稼いでいるといっても過言ではない。