例によって椅子の上で爆睡した後は、早起きして某所へ。ところが、朝の10時からと信じていた用事は午後の2時からで、いらん恥をかいた後、国会図書館に移動して、前倒しで仕事を片付ける。雨。傘をさしても濡れていくベージュのコートを見ながら、「このコートを雨で濡らしたのは、前回はいつだったか記憶がない」と思う。

午後から某所に舞い戻り、友人と作業。仕事を一つ手伝ってくれない、と誘われたのも嬉しかったが、そのくらい信用されているんだなあ、と思って、とても嬉しい。ちょっと張り合ってぎくしゃくする場面が全くないわけではないけれど、互いの長所を多分互いに買っているし、何より、相手の知性を信頼できる。「知性」とか言うと少し恥ずかしいが、つまりまあ、どういうことをみっともないと思うかが、多分かなり共通している(どういうことをかっこいいと思うか、にはかなりずれがあるのが話していて面白い)。こちらに向かって心が開いていない人とばかり話さなきゃいけない数年があったので、新しい友人の有り難さを、つくづく感じる。

ちょっとしたつきあいに「基本的に信用できるかどうか」を持ち込む私は、小さい頃から魔女狩りにあった影響がいまだに大きいのかもしれない。信用できない同士で、その場そのときでうまく噛み合って歯車を回していく、という度量の大きさに欠けているのかもしれない。ていうか、度量が大きかろうが小さかろうが、それが社会で、ひいては商売というものなのかもしれない、と思うと、社会と商売に適応できていないということなのかも。「商売は信用第一」の「信用」は、多分一般的には「知性」への信頼ではない。

夜は、昨年末から参加しはじめた異業種交流会の新年会。そこそこ大きな組織で食うに困らぬ生活を送っている人たちが多いせいか、至って寛容。内実までは知りませんが、このご時世に「何か楽しい/面白いことはないか」を追求する余裕のある人たちである(メンバーで、現在もしかしたら大変なのかも、という人たちは、お休みしている由)。この日のゲスト兼スピーカーは、何度もスクープを物にしてきたというフリーライターの方。目から鱗が落ちるというよりは、それが本当なら世の中信じられない、というような話をたくさん聞かせていただいたが、もちろん厳重な緘口令付き。来月は、何か話をするかゲストを用意する、という当番を割り振られてしまったので、考え始めなくてはならない。

去年の終わり頃から急激に忙しくなった要因&キーワードは「アウトプット」。そのほとんどが「書く」か「編集する」かに関連していて、書く人だからこそその場にいる、ということが多い。「書かないなら居なくても一向に構わない」という存在だし、出不精で外向的とはいえない自分も、何の縛りもなければ、わざわざ出て行ったり話したりすることもない。いったん「書く人」と認識されると、不思議と用がなくても宴会に呼ばれたりする。こちらも「何かに使えるかもしれないから、写真だけは撮っておこうかな」と思っていたりする。アウトプットする場所が実際にあるという大きさ。

ということで、仕事の肩書きは変えずに、「書く」と「編集する」を突破口にできないかと年末から考えている。翻訳もその一環。

しかし今週は、かばんの中に入れていた新書一冊(『戦略PR 空気をつくる。世論で売る。 (アスキー新書 94)』すら読み終わらなかった。ベッドサイドの『ファミリーポートレイト』も、既に読み終えたページを確認のためにめくっているうちに寝てしまう。ちょっと冗長じゃないか? そもそも、お布団で寝たのは何日だ?