いつのまにか、春の青春18きっぷの使用期間に突入していることに気づき、とっても驚く。今年の冬は風邪をひいている暇もなかった。

望遠レンズが欲しければ、一眼レフを買わなくても、GX100テレコンバーターを装着すれば済む話だったんじゃないの? とか今さらながら思ったり。

というのも、昨日某所で一足先に、取材記事の載った媒体を閲覧して、他の人がコンパクトカメラで撮った写真が、自分が撮ったものより数倍きちんとしているので、へこんでしまったのだ。自分が撮った写真は、殊に一枚がひどくて、メールでお謝りを入れなくてはならないほど。パソコン上でチェックしたときは、こんなにひどいとは思わなかったから載せたのに。

さらに、いつもは(多分)大して時間をかけずに通り一遍の記事を書くタイプの人たちが、今回きちんと記事を書いていて、やればできるところを見せている。形式は過去自分が書いた記事をそのまま踏襲。すっかりスタンダードになって、私の独自性(主には詳しく正確に書くということ)はもう跡形もない。雛型の重要性ということ。人は進歩するということ。

まあ雛型の重要性はHP製作に生かすとして、今後私はどこに付加価値を置けばいいのか。スタンダードであっても一向に構わないタイプの記事ではあるが(何らかの付加価値を付け加えられないなら、自分が関わる意味がないと思うほうだ)。

それより、この写真によるダメージが、私の場合、文章まで損なっている。写真って、手ブレせず、適正な露出で写っていることがすべてなのでは。特に取材写真の場合。構図こそ、後でいじれば済むことなんだし。デジカメは一撮必写じゃないんだから、デジタルで補正できないことだけ考えればよいのだ。

どこぞの図書館の近所を歩いていたら、火事があったらしく、けたたましいサイレンを鳴らしながら消防車が通る。赤い回転灯が、夕暮れの空に映えて美しい。近藤ようこの『心の迷宮 (1) (ビッグゴールドコミックス)』に、夕焼けを見ながら「火宅だ.....」とつぶやく男が出てくる。「カタクって何?」と尋ねる子どもに、「この世のことだよ」と父は答える。

自分が能力に欠けていると実感するときが、一番ブルーだ。失恋したときの喪失感もなかなかひどいものがあるが、もはや記憶に残っているのみで、音と色のない画像を再生する程度の再現力しかない。

突然、「あ、自分は孤独じゃないかも」と思う。その手前で、孤独を見ないようにしているだけなんじゃないか。孤独を見なくて済むように、とても注意深く生きているんじゃないのか、と。その薄い膜に亀裂を入れるのが経済的不自由というやつで、そこにダイレクトに繋がるのが「能力の無さ」というやつなのだ。

兄が結婚するというニュースが、母の携帯経由で飛び込んでくる。感慨が深い。49歳と43歳の兄妹は、生産的な世の営みには無縁のまま、子孫も残さず家をつぶす確率が高いと踏んでいたのだが。お相手の方は兄より10歳くらい下で小学校の先生だとか。動物のお医者さんが動物を好きかどうかはわからないが、小学校の先生ならまあ、子どもが嫌いってことはないだろう。金持ちでもインテリでもなさそうだが、気立てが良いことを祈ろう(ついでに美人で賢ければなお可)。子どもを産んでくれればいいなあ、と思うが、これはなるようにしかならない。

若かりし頃はハンサムで、人好きがする割に皮肉屋だった兄の着地点を見るのも一興。奴がどこで、人並みの市民的生活との折り合いを見出したことやら。

先日、生涯で初めて50代のおじさんが恋愛の対象に見え(それまでは、40代前半以降の人は、魅力的であろうがなかろうがみな異星の住人だった)、自分の老いを自覚し、驚愕すると同時に「あらら、これは今後の人生結婚もあるかも」と思ったところだったので、その辺りともシンクロするのが兄妹の絆。6歳離れた兄とは、性格が全然異なるにも関わらず、入学、卒業を始めとして、人生の転換点が不思議とよく重なった。留年を繰り返していた私が大学を卒業したのと、ずっと大学院に籍を置いたまま浪人していた兄が教員になったのも、同じ年だった。実家にとって目出度い出来事は、なんと17年ぶりである。

まあ、結婚云々はともかくとして、今年は本格的に孤独になろう。「一人じゃ心細い」は卒業して、一人でどこにでも(評価の伴う場所へ)出かけていこう。冷たくあしらわれることに、もっと強くなろう。自分より美人やら出来のいい女性やらと連れ立って出かけて、自分が注目されない、と僻むのはよそう。おじさんの魅力もわかりつつ、心は勇敢な少女のまま(しかし、少女って勇敢だろうか? 少なくとも私は、おどおどの塊だったが)。

あら、書いているうちに自己セラピーしちゃったわ。この勢いで電話2件かけなきゃ。