"ある年齢過ぎて「もてない男」というのは、−−は信用できません。もてなくても大らかならいいですが、大体は僻みっぽく恨みがましくて、ついでに、愚痴と説教(どちらもオリジナリティに欠けるのが特徴)が長いので"

と、年上の女性の方にメールを書きながら、「ん。愚痴と説教はともかく、僻みっぽく恨みがましいってのはむしろ自分のことでは」と、珍しく自省モードに。例えば、初めて会ったときに、こちらの存在を全く気にかけてくれなかった人、当たり前のように「どうでもいい」扱いをした人、隣の美人ばかりちやほやした人等を、特記事項のメモ付きで記憶しておく習慣それ自体が、まさに「僻みっぽく恨みがましい」の典型ではなかろうか、と突如悟って、「そのメモは今後破棄する方向で」と脳内決議したことだった。

そもそもの始めから好意的だった人間に対しての高評価は変わらないけれど。様子を見ながら、ではなく、無条件の承認と好意は、裏返せば初対面時の大きな武器になり得ると。

その具体例について久しぶりに会った友人と話していたら、「でも旦那に安らぎや憩いは求められないよ。むしろ絶えざる緊張と監視状態というか。おっと、そうきたか、みたいな。まあ、運命共同体ではあるけどね」と相変わらずの発言。わかるけどね。自分の親を見ていても。じゃあ、安らぎや憩いはどうするのさ、と聞いたら、まあ、友人に求めるってことになるのかなあ、と。「だから、贔屓の球団を聞くんだよ。で、一緒に野球観戦だね」ってなアドバイス

大学時代の友人なので、心置きなく写真も披露して、ロバの耳になってもらったひと時の爽快感と引き換えに、急に会いたくなって鬱。言霊に増幅されて。なんとなく、海の上に浮かんでいるような心もとなさで周りを見回してみても、島影一つ見当たらない。

この人に会ってから、私はかなり勇敢になった。けれども、強さの素は、自分の中にはなくて、他人の手のうちにあるので、振り向かずにいられない。「もたないかもしれない」という不安が、常に繰り返し寄せてくる。

あらかじめ、敵を作っておきたくなる。彼が敵に回っても「その他大勢の敵のうちの一人」と看做せるように。一番厄介な場所に攻め込みたくなる。全方位、茨に取り囲まれていたのだと信じられるように。

結局、安らぎと憩いの場所は、私にとっては大層恐ろしいのだった。

ブログの友人と、もう現世では会えないような気がする。なんというか、思い残すことのなさそうな生き方をしている方だったし。「勝手に殺すな」と書き込んでくれることはないんだろうなあ。