そういえばお誕生日でした。全然減らない仕事その他が大変で、感慨にふけっている暇がない。日々をどう維持するかだけで手一杯。人生80年生きるとしてももう折り返しを過ぎたのか、くらい。そんなに生きる必要は全く感じていませんが。後期高齢者入りした両親は、私の精神的庇護者として、頑張って長生きしてほしい。兄が結婚して孫ができたとたんに、安心してぽっくり、なぞということになりませんように。

兄の婚約者(父から写真が届いた)は、母や私のような素っ頓狂なところの全くなさそうな、なんだか実用的な感じの人である。顔立ちはよく見れば整っているのだが、美人という印象を与えない不思議な顔。服の趣味が悪いというのは、家庭を維持することを考えれば悪いことではない(デザイナーズ・ブランドに身を固めている奥さんがつましい収入でやりくり上手なわけはないのだ)。家族健康でありさえすれば家事は二の次、の母(そういう場所に置かれれば当然私もそう)と、こうも違うタイプを選んだか、とにやにや。まあ、お仕事は続けるそうですが。名門公立小学校の先生で、収入は安定、産休は取り放題。そんな立派なお嬢さんがどうして兄のようなフーテンを?と疑問に思うが、「大学教授で物知りでピアノが弾けて素敵」と言ってらしたそうなので、人はまあ、自分にない要素(フーテン的なそれも含めて)に憧れるわけなのだ。まあ、合唱繋がりだというし、合唱部の顧問もしているというので、基本的なところで安心である(私は語学と法律と合唱をやる人は絶対嫌だが)。母が昔自分で織った紬(私とお揃い)を差し上げたところ、「いただいたこの紬に恥じないような生き方をしたい」とおっしゃったとか。立派だわ! 

兄が先方の実家を訪ねて行ったときは、相手方の親戚一同が「大学教授だというからおじいさんだと思っていたのに、若い人が来た!」と大歓迎だったという。いや、50歳ですけど。普通は定年で大学を辞めることを考えれば、「おじいさん」は名誉教授あたりでは? あー、原先生や飯田先生は今頃天国で何を語らってらっしゃるかなあ。

しかし、1. 収入のバックアップと、2. 片付いた部屋と、3. 栄養管理、の算段が整った兄は羨ましい限り。私は、健康第一で、情緒の安定した男の人がいいなあ(これまた、父にも兄にも全く似ていない)。

自分が今所属している業界は、へたすると死ぬまでおつきあいが続く、という点から見ると、なかなか新鮮な感慨がある。30代くらいから中年になり、白髪が増え、慢性の病を得て引退しない限りは葬式まで。人生共にしなくても、それだけの映像特典がついてくるとは。うーむ。なんとなく「煮凝り」を連想するわね。時間の流れの中に相手を置くというのは、ちょっと神聖で胸の痛い作業だね。

まあ、そういう感じで44歳。ああ、おじいさんたちへの親和性が高くなったのは、「この人たちと一緒にされたくない」よりも、「この人たちの間では若い人扱いされる」への移行だったか? 一足先に老いていく人たちの営みを、残酷な懐かしさをもって愛でていると言えなくはないか? ちなみに、男性だから「愛でる」のであって、女性の老い(と美しさの維持)に対しては「化粧品何使ってるんだろう?」くらいの即物的な感想しか持たない。「人間だもの」の心境にはまだ遠い。