地味に書いておこう。

モントーヤ、おめでとう。

ついでに、ブリアトーレの放言も。

英文だと"He is a little kid. Little in every sense." だそうで。これって小男差別では?それはともかく、「人の良さそうな童顔」だったマッサの面構えが、だんだんしたたかになってきましたね。勝利で変わるタイプだったか。フェラーリ移籍前は、どう考えてもライコネンとは格が違う感じだったけど、今は「俺が来年二番手に甘んじると思うなよ」と顔に書いてある。ま、いいんじゃないでしょうか。

それにしても、今日もポールを獲ったマッサ。これって、元々ミハエルを上回る素質はあったっていうこと?それともフェラーリで伸びた?それとも、フィジケラハイドフェルド、ウェバーも、フェラーリで走ればこの程度までは走れるはずだってこと?まあ、来年ライコネンが乗れば、自ずと答えが出る疑問ではあるけれど。

読み終わって、メモを取る作業だけが残った本がたまってきたので、しぶしぶPCの前に移動。そろそろこの辺りで身軽になっておかないと、京極の後半に取り掛かれない。

ってことで、データ系じゃないやつ。

ツアー1989』。急に貸し出し冊数が増えたので、何か大きな媒体で書評が出たのかもしれない。私は『メイプル』経由だったと思う。

1989年というのは、私にとっては引っかかりのある年だ。まず、大学の同期が卒業した(つまり、私は卒業できなかった)。春休みを一人で過ごす勇気がなくて、旅に出ることにした。予算40万円でヨーロッパ40日。モスクワにトランジットで一泊し、フィンランドを皮切りに、旧東側を含めた10カ国を駆け足で巡った。帰国後はかなり集中して東欧圏の動向を追っていたから、ベルリンの壁が崩壊したときは血が逆流するような興奮を覚えた(ような記憶がある)。

しかし私の「東欧熱」は、所詮いつもの現実逃避のバリエーションを増やしただけで、その後大学の講義に熱心に出席するとか、学生課で就職先を探す等の現実的な行動には何ら結びつかなかった。貧しい学生から貧しい社会人になり、一貫していたのは、私には、その頃日本を覆っていた「バブル」という現象は、遠い国での出来事のように縁がなかったということだ。バイト先の夕ご飯が寿司や鰻だったり、飲み会の後は必ずチケットが出たこと、証券会社の友人の頼みでNTT株の抽選に申し込んだり、そういった断片的な出来事はあった。しかし、自身はいつも、1メーターのタクシー代も自由にならない生活だった。

かといって、極貧生活だったかといえばそれも違う。生活を切り詰めてデザイナーズブランドを買っていたし、何万もするコンサートのチケットを編集者の友人から横流ししてもらっていた。確か、旅行に行ったときも、派手な円高だったのではなかったか。

未だに「バブルって何だったんだろう」と思う。知っているような、知らないような。多分どちらも正しい。『アッコちゃんの時代』は、無縁だった方のバブル。『バブルの肖像』は現在予約中。

長い前置きになったが、この『ツアー1989』は、そんな曖昧な自分のバブル末期を追体験させてくれるような小説だった。

4つのエピソードから構成された短編集である。エピソード1から3までの登場人物は皆、1989年かその数年後、香港行きのツアーに参加したことがある。1989年に香港(うち一人は東京)で起こった出来事を、彼/彼女たちは、15年前に書かれた誰かからの手紙、自分の日記、ネット上で見かけた他人のブログを通して思い出すことになる。しかし「思い出す」というのは正確ではない。なぜなら、手紙/日記/ブログに書かれていることは、彼らの記憶とは微妙に食い違っているからだ。

どうやら、1989年の香港ツアーは、「迷子つきツアー」という企画だったらしい。「いっしょに行ったはずの人間がなぜか行方をくらましてしまうツアー」。言われてみれば、そういう陰の薄い男の子が参加していたような気がする。香港で声をかけてきた(と夫が言う)男の子は、手紙を寄越した「迷子」だったのか。自分が過去に日記に書いた香港の夜の出来事は、本当にあったことなのか。まるで自分の記憶を盗んで書いたかのような他人のブログを、女は自分の記憶の通りに書き換えてアップするが...。

エピソード4は、80年代生まれのライター志望の青年が主人公だ。彼は香港滞在中、でふとしたきっかけで「迷子」が書いた手紙を手渡され、手紙の「迷子」の消息を調べ始める。「迷子」とは何だったのか。「迷子」は実在するのか。

エピソード1から3までの登場人物は、おそらく1960年代生まれだと思われる。彼らの現在の状況、あやふやな記憶、共通する「なんだか重要なものをどこかにおっことしてきたような気分」。それらは、まるで自分のお話であるかのように、すとんと胃に落ちたのだった。表紙のSimon Thorpeの写真も好き。

もう1冊『青チョークの男 (創元推理文庫)』は、久しぶりのフレンチ・ミステリ。パリの路上に夜ごと描かれる青いチョークの円と、その中に置かれたガラクタ、一見穏やかで人に眠気を催させるかと思えば、森の野人の嗅覚でもって残酷臭をかぎ分け、犯人を追いつめる警察署長、インテリで飲んだくれ、娘に「アドリアン、ほんとに困り者ね」と名前を呼んで叱ってもらうのが好きなその部下、美貌の女性海洋学者、彼女に拾われた盲目で白皙の美青年。ほんと、フランス人ときたらフランス人なんだから。この表紙(イラスト=牧野千穂)とこの厚さも大変よろしい。私が好むということは、若干小道具が女性寄りなのかもしれない。奇しくも、この間読んだ『シャルビューク夫人の肖像』と、謎解きのオチは同じだった。『死者を起こせ (創元推理文庫)』も予約。ついでに書いておくと、『シャルビューク夫人の肖像』は、表紙の「マダムXの肖像」ほどの出来ではありませんでした。

F1日本GP予選

鈴鹿サーキットを久しぶりに画面で見て、やっぱりいいコースだなあ、と思う。開けた空と海と。ここには明るい「気」がある。風に翻る旗。強すぎない陽射し。観戦日和だ。師匠元気かしら。

チームの「総合力」ってのは、結局「執念」と同義語なんだと実感した今日の予選。ブリヂストンを生かせるパッケージを、ぎりぎりで間に合わせてきたトヨタライコネンを第2ピリオドで必死に振り切ったホンダのバリチェロ。何より、「ミハエルを勝たせるんだ」という一念が、結晶化してそこにあるかのように伝わってきたフェラーリ

3列目に沈んだルノーは、どこかで進化を止めてしまったように見える。孤独な王になってしまったアロンソ。結果が出ないことに、もはや苛立ちを見せないマクラーレン。このところのライコネンには、速さに対するストイックさが感じられない。非常に遺憾。

奇妙な空白を感じる。王座が中空に浮かんでいるような。ただの「人」には近づけない場所にあるような。いや、明日ふたを開けてみれば、泥まみれの地上戦なのかもしれないけれどね。いずれにせよ、平凡なレースにはなるまい。

ミハエルの不在が重い。まだ彼はいるのに。ただの車のレースなのに、ただの観客なのに、世界の中心に鈴鹿があるような気がする。やっぱり彼は特別だったんだなあ。

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  • オンライン書店ビーケーワン:そして、ねずみ女房は星を見た 『そして、ねずみ女房は星を見た 大人が読みたい子どもの本』清水真砂子著、テン・ブックス、2006.10、ISBN:4886960189
  • オンライン書店ビーケーワン:世界のシニアリビング 『世界のシニアリビング』上利益弘編纂、グラフィック社、2006.10、ISBN:4766117387

資料

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