権力と師弟関係

千利休
千利休清原なつの著、本の雑誌社、11/2004

今も昔も、芸術家とパトロンは切っても切れない関係にある。しかし今の芸術家は、たとえパトロンの逆鱗にふれたとしても「死ね」とは言われない。死を命じた秀吉と命じられた利休。どうしてそこに行き着いてしまったのかが、淡々と描かれる。

利休は堺の裕福な商家に生まれた。19歳で父を亡くすが持ち前の商才で商売は繁盛し、茶の湯の才能も人の認めるところとなる。49歳で信長と出会い(結構遅いですね)、信長に仕えた後は秀吉に重用される。しかし、秀吉が権力を握るにつれ、秀吉の利休という師への尊敬は自分より秀でる者への疎ましさに変わってゆく。

何事もそつなくこなしていたはずの利休がつまずいた理由の一つとして、大徳寺山門上の木像問題があるという。大徳寺の山門の上層に自身の木像を安置し、大徳寺を参拝する秀吉をも足下に置く行為が秀吉を怒らせたというもの。常に権力者の傍にあった利休が、そんなうかつなことをしたのだろうか?驕っていた?

その点も不思議だが、この本によると、秀吉は利休が頭を下げれば許すつもりでいたという。しかし、利休は謝罪しなかった。死の前年、弟子の山上宗二が死んでいる。利休は助けられなかった。

権力というものが嫌になったのかもしれない。けれど、そんなに弱弱しい人間だったようにも見えない。むしろ、金と権力で可能になることをし尽くして、はじめて自由になったようにも見える。

軍勢が屋敷を取り囲み、弟子に介錯を受けての切腹。本当なのだろうか。自らの腸を引きずり出して死んだというのは。この場面だけが、壮絶な描かれ方をしている。

一方金や権力で、愛する者をつなぎとめられなくなってしまった権力者はどうすれば良いのか?死んだ利休よりも、残された秀吉が哀れだ。

戦国時代に権力者とともに隆盛をきわめた茶道。どうしてその時代だったのか。利休なき後、茶道をプロデュースしたのは誰なのか。そして、自分では記録をあまり残さなかったという利休は、本当は何を考えていたのか。

これまで興味のなかった秀吉にも、ちょっと興味がわいてきた(西田敏行よりは清原なつのの描いたお猿さん顔の方がまだしも)。昨年は安土城に登り、今年は静岡の東照宮に出かけたことだし、来年は長浜行きかな。